2002年05月の日記

時という風の中で生きよう。
もう今月も終わりますねぇ。もう6月。早いー。時が経つのは、本当に早い。“時”は時に無常にも自分たちをあざ笑うかのように、自分の心を置き去りにしていきますね。でも、ある時は、“時”が人の心を癒していく。すごく複雑になる今日この頃です。
 と言う事で、今回はちょいまじめに。“時”について語りたいと思います。
 
 時について考えた事ありますか?人は誰もが皆、生きている今という“時”の中で沢山の事を考える。与えられた今について。これから来る死について。ふとした時に、いつの間にか“生きる”ということを考えているもの。
 人は若ければ若いほど。今が永遠に続くように思えて、あまり死ということを、非日常的なものとして受け止めている事が多いものですね。それは、恵まれている環境にいる自分の状況にもよりけりだけど。でも、死を考えてみると。“今”の大切さに気づくものだと僕は思います。
そんな中、自分は今までいつも、一生懸命生きてきたように思う。何をやるのにも、一生懸命。一生懸命でないと心に余裕ができないのかなぁ(笑)。だから、自分が就職するにあたり全く違うところに行くと聞いて、皆にとても驚かれました。「えっ、じゃあなんであんなに一生懸命勉強やっていたの?」ってね(笑)それは、それ。これは、これ。どうせやるなら沢山の事を学びたいし、でも、人生に対しても妥協や流される事はしたくない。今は今の自分をもって生きたかった。
だから、なんか余裕を持つという事がとても難しかった。それは、なにかやらなくちゃ、という駆りたてられる不安があったり、“もったいない”と思ってしまう自分がいた。何かを同じ時間の中でやるのだから、時間を無駄にしたくない。やるからには、頑張ろう。と言う気持ち。でも、いつのまにかそれが。“生きる”という大切さに変わっていた。

 このまえある方からこんな質問を受けました。「羽田君は、自殺ということを考えた事はありますか」と。正直、その時「ない。」と答えました。それは、先にも話をした通り。いつか来る死があるのだから、その時まで頑張れる自分を大切にしたい。それは、死ぬことにもったいない、と感じる自分がいたからです。そんな勇気もないし。
 でも、正直に考えてみると、あるんですよねぇ。何もかも、無気力になる時。もうどうでも良くなる時。それは生きることに一生懸命で、全てが“疲れてしまう”時に多かった。生きる事に一生懸命というのは、悩む事にも一生懸命なわけなんですよね。

 この前こんな話をききました。小学生に「自殺を考えた事がありますか」という質問をしたらしいですね。そうしたら、ない、と答えた人は大半なものの、少なからず、ある、と答えた人がいたらしいです。その事実より、「自殺」という質問を小学生に投げかけるこの時代に、ショックを受けた、ということでしたが。
 そうですよね。そう思いました。それと、同時に思った事がありました。それは皆、口に出さずとも多少なりとも、人生の中でそんなことを感じる事はある、または、あったということ。一生懸命な人程。頑張っている人程。自分を好きになれない人程。
 
 「人はなぜ生きる事に苦しむのか」。
それは皆、“生きているから”、だよね。そりゃそうだ(笑)。生きる事は、いい事も悪い事も含めて、自分に沢山の業を課すものなんだもの。(なんか仏教っぽいね(笑))それが生きる事実なんだと思う。
 あー、断っておきますが、自分は別に宗教とかに入っているわけではないので(笑)よく路上でもきかれるんですよね。「何か宗教をやっておられるんですか」って(ある意味、考え方が確立されているという意味らしい^^;)。そんな時、自分は「自分教」です、という(笑)。どんなジャンルであれ、日本人になじみの少ない宗教というのは悪いイメージが多かったりする。それは、宗教をしていることで洗脳的な偏った見方をしてしまうという畏怖があるんでしょうね。宗教がらみの事件も多かったりするし。でも、まぁそれはその人にとって大切なものであるなら、それはそれでいいんじゃないかぁと思いますが。どのみち、何らかの信念をもつことは(形はなんであれ)大切な事ではあるからね。それが“宗教”であれ、“自分”であれ。その人も、周りも幸せといえるものであれば、きっとそれでいいんだと思います。(もし、そういえないものはちょっと問題ありだけど(^^:))
 また人は、自分の心に余裕をもてないということが多いものです。余裕を持つということは単に心に余裕を作ることをすることじゃない。今の自分を認め、そんな自分を許してあげること。一生懸命生きるあまり、そんな自分を許せなくなるんでしょうね。責任感が強い人程、認めてあげることが“負け”と捕らえてしまうことが多い。そんな中、一生懸命ということに疲れてしまうものです。
 助けて、と思う事があるのなら、助けてと言う事を口に出すこと。
 疲れたなら、疲れたということを認めてあげる自分。
 俺は、それをその人の弱さや否とは思いません。むしろ人間らしい。そう思います。いや、そう思うようになったのかな。ちょっと昔は何をやるのにも、認めることができず、人に対しても、自分に対しても憤りを感じる事が多かった。弱い人がいたら、「なにいってるの?」と、感じていた。
 でも。それは間違いだと思った。自分がどん底でどうしようもない時程、感じていた事が自分に答えを見つけてくれた。「あ、それも人間なんだ」って。強すぎる人よりも、俺は弱さも強さもちゃんと知っている人のほうが魅力的だと思うし、なによりも温かくて優しい強さを持てる人だと思う。そして、そんな人間が心から素敵だと思う。あなたらしく頑張っている、それだけで充分すぎるぐらい。俺はカッコイイと思う。
 
 皆、与えられた時の中で沢山の事を考えるのかもしれない。それを幸せと思う人もいれば、そう思えない人もいるでしょう。
でも、時というのは、自分に可能性を与えてくれている。そう思うんだ。
生きる、という可能性。僕らはきっと、知らぬ間に生きるということを当たり前、ととり、何かを追い求める事を無駄、ととってしまうことが多い。
 やるやらないは、その人次第。別にやることが偉いわけでもない。幸せとは限らない。
でも。少なくとも、もし自分の中に何かをやろうとしてみる気持ちが芽生えたなら。
俺は絶対やるべきだと思う。やってみて続かないなら、それでもいい。やる、ということが大切なんだもの。それが、生きるという“可能性”を追求することだと思う。そして、その為に。今という時間を与えられているんだ、と思う。

 時間は間違いなく、今この時を生きている瞬間から減っている。それは誰もが皆同じ。何かをもって生きているのと,そうでない。その時間における価値はどれだけ違ってくるんだろう。
 やる前からあきらめている事。
 失敗することを恐れてしまう事。
 無駄だと思ってしまう事。
 結局、なんだかんだいってもなにもやらないというのはそれがその人にとっての幸せな形なのかもしれない。
 でも、何かをやろう!と思っている人は今を生きる事の大切さをちゃんと知っている人だと思う。そして、やってみて少なくとも、良かったと思うことも多い事だとも思う。

 人生は一度限り。誰の人生でもない。自分の人生。それをまず自分が大切にしてみることが始まり。それによって失う事も多いかもしれないけど、だからこそ、得られる事はもっと大きくもなる。
 そこに、“自分”がいる からこそね。

 なんか、また固くなっちゃったかぁ。まとまっていないし(笑)。読んでくれた人ありがとうね。少しでも何かを感じてもらえれば嬉しいです。せっかく持っている可能性を無くしてしまったら、自分で摘み取っちゃったらもったいないと思うから^^。何かをやろうとしている人。頑張ってみてくださいね☆
では、またね^^  
(2002.05.31)
自分をもつ、ということ。
こんにちは☆はたです。今日はfamily martの年賀状を企画しにいってきました。family martって伊藤忠商事さんが大元って知ってた?今日はその伊藤忠さんの所へお尋ねです。やっぱおっきいね。場所も建物も一等。んー自分がそこにいるってちょっと不思議な感じ。
 年賀状もたくさんあって。やっぱりその企画から選考から、沢山のものを作れる人間ってすごいなぁと感じたな。それだけの個性に溢れているし、一つ一つにいいものってあるんだね。
 そこで一番大きな事を感じたのは、作家、アーティストとしての”個人”と、会社としての”企業”。きっと、どこにいっても社会の中でその関係は持ちつ持たれつ丁度良いバランスを保てるように2者が作り上げていくものなのかもしれないね。お互いを尊重していく中に自分を持ち、それをどう表現していくか。それは1対1の人間関係とよく似ている。そのどちらかだけで成り立っている時も沢山あるし、逆にお互いがないと成り立てない事もある。
 今回はその両方を勉強させてもらっている感じ。すごくその表現の違いに違いはあれど、求めているものが一緒であるかぎり、きっと人に伝わるものができていくんだろうなぁ。そんな場所にいれる自分をありがたく思いました。
 
 自分は正直な話、企業という存在が自分に合ってるのかどうかわからなかった。これだけ不況不況と呼ばれている中で、漠然とした不安も沢山あったし、自分探しなんて手探りでやみくもに走り回っていた。自分がわからなかった。
 ただ、今こうやって自分の立場を作れるようになって初めてわかったことがあるんだ。それは。自分の道探しなんて、教科書にも乗ってないし、これが正しいというセオリーもない。結局、自分が沢山の体験の中で沢山の事にぶつかって、悩んでしらみつぶしに探そうとする以外に探す事はできない、という事。
 道を探す、という事は、道を決める事じゃない。道をつぶしていく、作業。これだけ沢山の選択があり、自分のしたい事もよくわからずに自分が一番初めに選んだ所が正しいなんていうことはとても難しい事だと思う。それはむしろ、自分をこれでいいんだと言い聞かせている事も反面、それで満足している部分もあるんでしょうね。
 自分を持ちたいと思っている事が顕著な人程。考えとかではなく、自分が”大切”と思うことや、”好き”と思う行動の中で感じる体験や経験を大切にしている。それはとても自分に一生懸命で素直な事だと思います。
 ある本で読んだ事があった。”今までのサラリーマンの人たちは終身雇用制という枷の元で安定した暮らしを手に入れてきた。しかし、その犠牲になったのは他でもない、”自分”という人生である。”
 確かにそのとおりだと思う。今までは終身雇用制が当たり前の世界で、それが自分たちの全てだった。そこから外れる事は人として”しっかりしていない”という、日本特有の世間体的な周りの人の目からのしがらみが多かった、という事実。現在も今それが根付いている。特に日本人は、”個”を主張することを避け、それを否ととり、”集団”を、つまり”協調”を大切にすることで生きてきた島国民族。それは、島国であるが故に、外部の敵から身を守るために昔から作られてきた文化なのかもしれない。
 ただ、ここで勘違いして欲しくないのは、自分は”企業”としての中で働く事を否定しているわけではない、ということです。その人には、その人の幸せがあり、形があり、それが正しい。それでいいんだと思います。
 でも、今なぜこうやって昔とは違い、フリーターと呼ばれる人達や、企業に属さない人達が増えてきたのかと考えると、僕は国際化社会、という背景がそこにはあると思うんです。
 今までは日本という島国でよかった。日本の中で作られたルールが全てだった。その他の事、全ては蚊帳の外だった。
 でも、今交通手段が発展して外国の交流、文化、物が沢山入ってきた。皆、気づかぬうちに、知らず知らずのうちに日本は島国ではなく、世界という国になりつつあるんだと思います。
 その良い例がアメリカ。アメリカは日本と全く逆で、”協調”よりも”個”を持つことを幾分か大切にする傾向にあったりする。自分のいる世界が広くなればなるほど、どこかに所属しているだけでは満足できない部分や、自分という存在が小さく見えてしまって自分を持っていかなければダメな部分もあるんでしょうね。
 今日本にいる若い人や社会性。それはただ、不況だから、という理由だけで今の人たちはいるわけじゃない。皆迷っている。悩んでいる。今までの企業というスタイルに対しての疑問。自分を主張することへの正当性。多様化する中での消されてしまう個性。皆、自分という存在を持ちたくて認めたくて、そんな中で苦しんでいる。その表れにしか過ぎない、と自分は思います。少なくとも、路上で自分がいる中でそんなことを感じます。それは、自分も感じてきた事でしたから。笑
 こういう時代だからこそ。自分を持って生きる事というのはとても大事だと思う。それはなんでもいい。自分ができること、やれること、好きな事。なんでもいいんです。それは誰かや、形じゃなく、あなたが選び、あなたが決め、あなたがそこにいる、という事に他ならない証明になると思うんだ。是非、自分を出す事を怖がらず、皆正直に生きてみてください。きっと、世界はまた自分に広がる世界は変わっていくから^^。それが生きるということ、だと思うな。
 なんかまた、ちょっと難しくもカタイ話になっちったかなぁ笑。今度は軽めに遊び心で書くので皆さん期待していてくださいね^^。
 では、このへんで。
 頑張れ あなた☆     
(2002.05.24)
人の心。人の想い。
どうも。お久しぶりです。皆さん。ごめんなさい 書き込みが遅くなってしまって^^;。最近、忙しいというのもあるのかもしれないけど、疲れがたまっているらしくなかなか疲れが取れなくて困っています。もうトシなのかなぁ(笑)無理はできませんね。
 というのも、今月はイベントや、(自分に課せた)課題をやっていたり、今週の23日までにはファミリーマートの年賀状も作んなくてはいけなかったり。余裕を持ってやっているつもりなのに、気づくと追い込まれていたり(笑)あはは☆面白いね、人生って。
 あ、皆には言ってなかったかもしれませんけど、来年のファミリーマートの年賀状のデザインを自分が受け持つ所をもらっていて。”路上”という形ではあるんだけど、後2人の方と一緒に出していく事になりました。2作品を自分は出していくつもりです。えっと、確か、北は青森辺りから、下は沖縄まで。全てのファミリーマートで予約パンフ販売という形で取り合ってくださるとの事です。自分が路上で出している作品と、あと、年賀状用に特別に作ったもの1品を出します。なので、ちょっと期待していてくださいね^^。
 なんか、年賀状って考えてみると、最近書いてないなぁと思いました。今、メールが普及している分、なかなか手書という事に皆少なからず想いを欠いている人が多いのかもしれません。便利さを追求した上での欠如。文明と人が自然に生きる事の中には、文明が広がるほど、沢山の満たされる所と、満たされなくなる所のギャップや溝が広がっていくのかもしれませんね。んーだからこそ、そこを埋めようとする人もいるのも現状で、そんな所に人の温かさを自分は感じるかなあ。自分もそうでありたいし(笑)そういう人がこの世にいる限り、大丈夫ですかね。
 なんか、年賀状から随分話が広くなってしまったけど(笑)今回、自分は年賀状で”想い”ということを大切にしたものを書いています。といっても、路上でいつも自分が書いていることと同じ想いなんだけど^^;。年賀状を例えばよく”礼儀”や”形”で書いてしまっている人も中には多いと思うんですよね。自分の想いを、いつのまにか世間体的な一つの”あいさつ”にしてしまっている。きっと、年賀状を一番初めに書き始めた人はそんなことではなく。ただ単純に相手を”想う”気持ちから故に書いたんだと思うんです。年賀状だけじゃない、色々なイベントも同じ。何かに対しての想いの意味がそこには含まれていて、それを大切に、そして嬉しく思う為の日としてあったはず。でも、いつの間にか気づくと僕たちはそれを一つの”イベント”や、”休日”として取ってしまっている。当たり前となると、いい事も悪い事も。ただの一つの”出来事”として捕らえられてしまうことはなんか悲しいですよね。なかなか、そういう日々の中で忘れそうになることを思い出しながら生きる事って難しいのかもしれませんけれど、でも自分のちょっとした意識だけで一つ一つの意味って変わってくるんだと思います。気づかないのではなく、忘れているだけ。なんかそんなことを、自分は出していきたい。伝えていきたい。そして、自分もそれを忘れないようにしていきたい。そんな中にきっと幸せという想いがあるんじゃないかなぁって思うんです。
 皆、誰だって、どんな人にだって。人の温かい心はもっているはずだから。それを今なかなか出せない人、思えない人がいるとしたら、それは、ただそれを忘れてしまっているだけだと思うから。そう信じたいし、そう思います。
 というわけで(まとまってないですけど^^;)皆に温かいと感じられるものを年賀状含め、これからも伝えて行こうと思いますので、皆さんよろしくね。いつも本当にどうもありがとう!!それではまた。
(2002.05.20)
今の”意味”
路上にいても、今、自分が頑張っていてもいつも考える事があります。それはいい時も悪い時も、その時その時の意味があるっていう事です。一つ一つに波があるように、人生や物事にもいい時と悪い時がある。特に人は自分の状況が悪い時、どうしても自分がそこから抜け出せるという事に確信を持てなくなって、弱気になってしまう時が多いと思うんです。周りの人の言葉が全く届かないほど、自分の悲しみの中に浸ってしまう時もあるし、逆にそんな言葉が空しくなる時もある。それはあくまで自分に起こっている事は“自分”にであって、“他人”ではないからです。だから、悲しみや不幸の中というのは自分に対しての“否定”に陥りやすいことがあります。どこかでうまく行かない事を何かのせいにしたり、自分を悲劇のヒロインに仕立て上げてみたり。当該者であるからこそ、その想いは真剣です。そうなると、そこにある“事実”をみることはできても、そこにある“意味”を考えることは難しくなってしまうものなのかもしれません。「どうしてこんなことになるんだろう」と思う事はあっても、「一体何を自分に教えてくれているんだろう」とは考えることはできない。そんな時、人生の難しさを感じるものです。
 ただ、一つだけいえる事は、「それがあったから」こその「今」があるということです。特に自分がそれを感じる時は、大抵自分に嫌なことがあった時、長い不調のトンネルを抜けた時、難しくてできなくて、めげそうになっても辞めず、やっとそれができた時。そんなとき、その“意味”を感じる事が多かった。なぜなら、そこから学べたことは少なからず、自分にとっての人生の意味を教えてくれていたからです。筋肉痛の痛みがあったから、筋肉がついてより力がついたように。転んだ痛みが、転ばない知恵を与えてくれたように。今起こっている事の意味を長い目で考えられたとき、その先に見えるものは自分にとってなくてはならないものになっていることが多いものです。
 いい時も悪い時も。その意味を考えてみる。そこから逃げずに、向き合ってみる。悪い時は「教えてもらえるもの」を考える。良い時は「忘れちゃ行けない事」を考える。そうやっていけることが自分を成長させていく上で必要なことじゃないかと思います。皆にも一人一人、きっと、それぞれの状況、それぞれの痛みがあると思います。そんなとき、ただその状況だけに目を向けるのではなく、そこからの意味を考えてみてください。きっと、学べる事があると思います。
 僕は「晴れがあるから、雨になる」とは考えたくないです。「雨があるから、晴れになる。」 そう思う事を大切にできる人でありたい。「夜があるから、朝がある。」 「トンネルがあるから、出口がある。」。起こっている事、それをどのように思うかはその人次第。だけど、その人生の“雨”や“夜”、“トンネル”があるからこそ、当たり前の事を幸せと思える。そして、だからこそ、人として、人生として成長できる、成功していける。そう言える人でありたい。そんな人であれたら、きっと全てに感謝できる。そう思います。
(2002.05.15)
自分。
久しぶりの路上にいってきました。その前はデザインフェスタというとこにいってきたんだけど、すごかった。沢山の感性や価値観を持っている人がいて。でも正直、自分には辛かった 笑。沢山の感性に触れることは自分にとって勉強になる分、それを取り入れることはとても難しい。いいものはいい!って思う。でもそれを自分の中で取り入れてそれを目標にしてしまったら、自分らしさが無くなってしまう。だから、客観的にみながら、尚且つ良さを見つけて取り入れて消化していく。それは神経を研ぎ澄ませて見ていく作業なのかも。普通はね、ただ楽しみにいったりするものだから、あまりこうやって見る人って少ないのかもしれない。^^;でも行った価値はあったかな。
 よく、路上で「あいだみつをさんみたいですね」っていわれるんだけど、自分はあいだみつをさんの作品をあまりみたことがなくて笑。だからよくわからないんです。皆もその墨で文字を書くっていうスタイル=あいだみつをさんっていうイメージがあるのかもしれないけど^^;。でも、俺はあいだみつをさんではなく、ノリヤスさんではなく、やっぱりハタタケルという存在だから。 “自分”だからこそ、そこに価値があると思うんです。誰かの真似にはなりたくないし、なれない。それが自分。「尊敬する人は誰ですか?」っていうことも良く聞かれる。でも、いつも「自分と出会ってくれる人皆」って答える。いないというわけじゃなく、それは皆一人一人、必ずと言っていいほど自分にはないものをもっているから。絞って尊敬する人を持つこともいいけど、沢山の人の尊敬できるところを絞って取り入れていった方が学べることが多いと思う。だからこそ、自分という存在も自分にしかできないこと、考えを大切にすればいいって思う。流されるのじゃなく、受け入れる。それが、きっと自分をもって生きていくこの時代の中では必要なことだと思うな。
 今日はね、そのイベントの後で路上にいったということもあったから、ずっとはできなかったけど、来てくれた皆と出会えたことがすごくうれしかった。いつも思うことがあるんだ。「もしも自分がそこにいなかったら、出会わなかった人がいるかもしれない。笑顔を見れなかった人がいるかもしれない。心のわだかまりを取れない人がいるかもしれない。」って。そのために自分は出ようって。別に自分がすごいとかそういうことを思っているわけじゃなく、すこしでも自分と接してもらうことができて、何かできること、伝えられることができればって思うからなんだ。でも、終わった後にはいつも「いってよかった」と思ってる。笑 今日も皆ありがとう。また頑張ります☆それでは。
(2002.05.13)
今週。
今週、雨がやんだり降ったりしていたね。丁度今週はイベントのゲストコメンテイタ―として出たりすることもあって、ちょっと忙しくて路上にでれませんでした。皆ごめんねぇ-_-;でも、来週からは出て行けるようになるので、また来てください。あ、あと今週の5月13日発売のHOTDOG PRESSに自分が出ます。結構路上の様子だとか、来てくださった人のこと、自分のコメントとかも色々載っているのでまたよかったら見てみてくださいね☆(女性の方にはちょっと買いづらいかもしれないけど笑^^;)明日は有明のデザインフェスタにいってきます。なにやら色んなアーティストさん達がいるという事なので。また、その帰りに路上でやっていくつもりなんでよろしくです^^それじゃ、また☆
(2002.05.11)
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