2004年05月の日記

あなたは夢を描くために生まれてきた。

五月に入り、気温も加減知らずに上昇ちゅう。なんだか寒かったり、暑かったりでへんな感じのこの五月。皆さんいかがお過ごしですか??風邪引いてないですかーー?

はいはいはーーい。今月もしっかりちゃっかりちゃんとやってきましたよ、ハタタケルの月記。
いやーーーー、月日が経つのは本当に早い。先月、月記を書いたばかりだと思えば、気付けばもう今月も締め切りが間近にずるずると迫り。まーー毎度のことなんですけれどね。というわけで、いつもこの時期は僕にとって一杯一杯になるわけですよ(-_-;) 
まぁ...、早く書かないからこうなるわけで。そんなことわかってますよって、といいたいところだけれど、後で回せるものは後回しになることがこの世の中の常であり。まぁ、なんだ、その。最後は自分に圧し掛かるという具合で 笑。 

..皆さん、ちゃんと宿題は早くやるのですよ。およよ。

 

 月記(日記)といってもですね、僕にとっては、そうだなぁ。一つの皆へのご報告と、ハタタケルエッセイ的な要素を含んでいるわけでありまして。どうも手抜きができない性格なのかどうか、いつもハタタケル新鮮市場から活きのいいネタを運んでくるようにしていきたいわけですよ。あい。

 にしても、最近の気温は異常だよね。昨日(5/30)なんて30度だよ、30度。なんでこんなに暑いのか。台風は来るし、蚊に血も吸われるし。もうすっかり気分は夏気分。なんだかカキ氷なんぞが食べたくなりつつ、今パソコンに向ってパチパチと月記を綴っているわけです。



 さてさて。今月から始まりました、ハタタケルのメルマガ!登録してくださった皆さん、本当にどうもありがとうございます!「陽だまりの会」に登録してくれた方や、メールを返してくれた方はメルマガが行っていると思うのですが、ただここで早速皆さんに一つお詫びを.....。笑

またかいっ!というつっこみが聞こえそうですが 泣。ここら辺はどうか許してあげてください(-_-;)。


 今回、記念すべき始まりということで、今回だけメルマガを3つに分けて送らせてもらいました。その結果、pcのアドに行っている方はよかったのですが、携帯のメールに行っている方は多分、最後まで見れずに、終わってしまっていることもあったかもしれません。また、不都合が生じているというメールも何通か頂いてしまいました。本当に申し訳ありません。

 実はですね、このメルマガの発行に関してですね、僕の方で送らせてもらっているわけではなく、管理のかたに配送してもらっているわけなんですが、そこで、携帯などは文字数に限りがあるので、携帯に分割にして送ってもらう様にしたところ、どうも携帯によっては、2回同じものが届いてしまったり、また、うまく配送ができなかったりすることが多くなってしまったようでした。

 今回は、「始まり」ということで、文字数を多くして送らせてもらったのですが、次回からは文字数を減らして、一回で送れるようにしますので、今回、もしも不都合が生じてしまっていた方は、どうかご勘弁下さい。また、もしも、よろしかったらできれば、パソコンの方のメールアドレスに登録先を変えていただければ、と思います。pcのメールアドレスの場合は、不都合なく皆さん、ちゃんと受信できていますし、長くてもまた、大丈夫なようですので。もしも今後、登録してくださる方は、そのようにして陽だまりの会に登録してくださればと思います。

皆さん、本当にごめんね。まだ始まったばかりなので、調整できていないことが多いので、始めは許してあげてくださいマセ(´▽`;)。でも、そのうち、またメルマガでしかできない、内容をお伝えしてゆければと思っていますので。皆さん、どうぞよろしくね^^。...なんだか、最近謝ってばかりですね 笑。


 ちなみに、今回の内容は...。もしかしたら、届いていなくて、見れてない方の為に簡単にお伝えしますね。

まぁ、メルマガの発送は、僕の「癒し人」が生まれた日にちなんで、「28日」付けで送らせてもらうことと、登録してくれている人たちだけに、ハタタケルの諸事情を含めた裏情報を教えちゃいますよという内容でした。思ったよりも、内容が伝えられないのがショック。大体、携帯の文字数にあわせると、700文字程度しか送れないんだよねぇ。ちょっとこの辺りは考えてみますね。
 


さぁさぁ、気を取り直して、ハタタケルの月記に参りましょうか☆


 
 最近ねぇ、よくアトリエで言われることがあるんですよ。何だと思います?

それはねー、皆さん、必ず決まって僕の年を聞くんですよ(笑)。よっぽど僕の年が気になるんでしょうねぇ。よく「大学生」で通るハタサンです。にひひ。

と、いうわけで。

「ハタサンのお年っていくつなんですか?」 

「え?18です。」(さらっと)

 
へぇーー。世の中の皆さんは、素直な方ばかりなんですねぇ。関心関心。迷うこともなくさらっと当然のごとく、決まってこう答えるとなんと大抵の人は信じて疑わず。目を真ん丸くして「えーーー!!!」と思ったとおりのリアクションで答えてくれます(罪悪感ゼロ 笑)。

 んーーー、なんていい人たちなんだ。こっちが驚いてしまいます。って、おいおいおい、通っちゃうの?無理あるだろー。気付けよ 笑。

 と、そのままいっそうのこと、18で通してしまおうかと思ったりもするんですけれど、さすがにそれは悪いかなぁと思いながらも、内心では相手の反応をみながらけらけらと笑ってみてみます。皆さーん、気をつけてくださいね。ハタタケルというのはこういう人ですよー。笑 

 皆さんね、僕のことを良く知らない人はね、ただのいい人で終わるわけですよ。まぁ、それはそれでいいんですけれどね、人間、ギャップがあってこそ面白い生き物でありまして。こんな癒し人と名乗ってしまっているハタタケルでも、いたずらゴコロがちらちらと垣間見れるようになれたらもうお手の物です。まぁ、ちらちらどころか、それが当たり前になってしまったら、たぶん僕のことは皆さん、癒し人ということ忘れていくんでしょうねぇ。なはは☆



 アトリエが始まってからですね、もう2ヶ月近く経つのですが、そのくらいになると、面白いことにそこに居なければ分からない、色々なことが分かってきたりもするんですよね。

 まず代官山って何気に人が多いときと少ないときの差がものすごく激しくて、人が通らないときは全くといっていい程通らないってこと。本当に人が一人も居なくなるときがあるんですよ。晴れた昼間なのに。これにはちょっと驚きでした。

だって、代官山ってなんだかいつでも人がにぎわっていそうな感じがするでしょ?でも、必ずしもそうではあらずであり。なんだかとても不思議な気分。


 第二に代官山って、何気にね、結構風が強いんですよね。アトリエのある場所がキャッスルストリートという通りなんですけれど、このストリート。風が強いときにはとんでもないことになっているんですね。そこらじゅうでガシャンガッシャンと面白い具合に壊れる音がする。笑 いやーー、すごいねぇ。よく外に僕も色々なものを飾ってあるんですけれど、おかげで、僕も飾ってあった額とかも、空中分解しましたからね。んーーー、恐るべし。代官山。


 ...と、まぁ、そんなこんなでアトリエに来てもう一つ感じたことがありました。

このアトリエができてからというもの、路上とはまた違ったお客さんがくるようになったんですね。

それは、「プレゼント用」としての形を求める方がとても多くなったということでした。


アトリエではですね、僕の方で様々なプレゼントとしても利用してもらえるように、そのようなコーナーを設けているのですが、特に今月は。その人間としての心の温かさを感じられる月になりました。


5月9日。皆さん何の日か知っていますよねー?この日は母の日だったのですが、アトリエに来てよく分かるようになったことの一つに、いかに母の日を大切にしている人が多かったのか、があります。


今まで僕が出会ってきた涙というものは、「自分」のための涙でした。つまりそれは、自分が悩みや今、ぶつかっている状況に対して流す、そんな涙が多かったのですが、アトリエができてから、また違った涙の意味との出会いがそこにはありました。


5月8日。母の日の前の日のことです。この日のアトリエには母の日用の誕生日プレゼントを求めて、たくさんの人が来てくれていたのですが、最後の方に、出会ったカップルの方たちがいました。そのお二人は、しばらく皆がいなくなるまでじっと色々な作品をみて、そして、明日は母の日だから一つ母に書いてほしい。といってくれました。

その男性の方は、まだ働いてから日も浅いこともあり、色々と仕事でぶつかることも多いといっていました。そして、そのお母さんのことを話しはじめました。

「家の母は、家の事情ですごく今大変なこともあったり、自分も仕事の環境や大変なことも多いのに、でも、それでも母は僕のことばかり心配するんです。そして、僕に心配かけたくないと、いつも自分のことはどんなに大変でも話さないで、とにかく僕のことばかり考えてくれる。そんな母に僕はこんなことしかできないのだけれど、でも、本当に感謝しているんです。」


 その方は、いつの間にか涙を流しながら話していました。僕はその人の心の温かさや優しさにふれて、本当に素敵な人だな、この方のお母さんは本当に素敵な方なんだろうな、と。そう感じながらも、僕も思わず涙がこぼれそうになってしまいました。


でも、実は。

その方だけではなかったのです。皆さんが、プレゼント用として、母の日にお母さんに贈ってあげたいという人のお話を聞くと、皆さん、その「お母さん」という存在に対して、同じことを伝えてくれるし、そして、このように涙を流しながら、僕にその思いを伝えてくれた人も多かったのです。

本当は沢山感謝したいのに、でも、どうしても素直になれなくて、自分の思っていることとは違うことをついいってしまって...。そのたびに素直になれない自分が嫌になると、

そんなことを涙ながらに語ってくれます。


その時流した涙というものは、自分の中で流す涙ではありませんでした。お母さんに、言葉に出せない「想い」が詰まって出てきたものでした。



僕が今、ここにいて、こういうことをすることを重ねてこれてよかったと、本当に思う瞬間が多々あるのですが、その一つに。

僕がこのような立場で、その人の思いや心を汲み取って創れる立場であれること、ということがあります。


正直、僕が自分のお母さんにですね、同じように自分の思いを書いて、色紙にするということは、とてもじゃないですけれど、できないです 笑 
なぜなら、自分の思いを書くことと、誰かにその思いを「代弁」して作品として書いてもらうこととでは全く違うものだからです。


だからこそ、ある意味、そうできる相手の方がちょっとうらやましくも自分ながらに思うこともあり(笑)、でも、「その人」の代わりに、僕がそういう役割を担えるということは僕にとってある意味とても幸せなわけでもあるんです。



僕はこうやって、今、路上の延長上のことであり、また違った意味での形を創っているのですが、今までやってきて、気付いていたようで、でも本当には気付けていなかったことがありました。
 
お母さん、という存在がどれほど、その「人」にとって大きいものなのか、

ということに。



 アトリエにこられたある人がこんなことを言っていました。

「お母さんという存在は、その人にとって一人しかいないからねぇ。」

その方もまた、一緒にこられた息子さんのお母さんだったのですが、その言葉に胸を打たれました。


きっとね、僕は思うのです。子供の立場というものと、母親の立場というものは、それぞれ違うもので、そして、それは、皆、実は同じような気持ちでいることが多いことを。もちろん、さまざまな事情が一人一人のご家庭にはあり、それによってまた心境も違ってくるものですが、僕の元へ、お母さんへの、またはご両親へのプレゼントとして創ってほしいと来てくれる方に関しては、聞く限り、「やっぱりそうだよなぁ」と感じてしまうことが多いのです。


もちろん、それが娘さんと息子さんの立場としての違いも大きいものですが、でも、そこに子供から親に「想う」気持ちは最終的にたどり着くところはだいたい同じになることが多い。でも、それは、きっと、お母さんや親御さんが、自分の娘や息子に想うこと、そして、そこから感じることもまた、だいたい同じ気持ちなんでしょう。


僕も自分の母親に関して、尊敬しているところも多々あります。このhpをたぶん見ているので、こっぱずかしいことはいいたくないのですが(笑)、関心させられることや、へぇと思わさせてくれることもよくあります。

 よく言われるんですねー。

「どんなご両親に育てられたんですか?」

「どう育てたらあなたみたいな子供ができるんですか?」(わかるかいっ)笑


って。そんなこと、僕に聞かないで下さいといいたくなってしまうのですが(笑)そういわれても、笑いながら「さぁ?」としか答えられない。

また、両親にですね、それを聞かれるんだといっても、家の両親も「さぁ?」と答える(笑)。

でも案外、親子の関係というものはそんなものなのかもしれません。


 
 ハタハタ内輪話ばかりで申し訳ないのですが、うちの妹も子供が生まれてからというもの、すっかりもうお母さんになってしまって。昔とは目を見張るほどの変わりように、おどろくことが多いのです。

先日も自宅に帰ったときに、テーブルに並ぶ夕食の全てが妹が作ったということを聞いて、かなりの勢いで驚いていたときに、妹はあきれた顔で「あのね、もう私お母さんなんだけれど。」といわれた日には、かなり面を食らいました。笑 まさかね、あいつからそんな言葉がでてくるとは思いもしなかったので。

こんなことを言ってしまったらぶーぶー文句をつけられそうですが 笑 でも、そのくらい様変わりした姿に、今までの妹を見ている「お兄ちゃん」としての自分が一番驚いているのかも。



「「子供ができると」しっかりするもんだなぁ。」といつもそんな妹の変わりようある姿をみては感心するのですが、でもね、それは言い換えれば。

「人間、守るべきものができると。」

ということなんですよね。

それは、人間の、いや、生物の本当の強さなのかもしれません。


僕は親の立場というものは、わかっているようで、でもわかりません。僕はまだ親ではないですからねぇ 笑。

そういってしまうと、とても無責任な感じもするのですが(笑)それは、妹の姿を見ていて、妹が一人の親になった姿をみて、よくわかったことであり、そして、それは親にならないと言葉にはできない、親だからこそ出せる、「重み」がそこにはあるからなのだと思うのです。


ただ、たくさんの人の話を聞き、その中で、その家庭、その家庭の違いや、想いを聞かせて頂くと、僕はなんだかとてもとても、今を生きていることへの感謝の気持ちで一杯になることもあります。

同じく、この5/8日の日のことでした。

この日はずっとそんなこんなで最後まで、明日の母の日のプレゼント作品を作っていたのですが、来てくれたその人が出来上がったものをみて、心から喜んでくれ、そして、そんな形を作ってくれたことに心からありがとうをいってくれる。

そして、まるで自分のことのように、いや、自分の家族のように、僕に対して僕のことの「幸せ」を願っていってくれる。

僕はそんな人達が笑顔と一緒に僕に伝えてくれる言葉を聞いて、皆が帰ったあと。なぜだか、ふと。言葉が浮かびました。


「生きていて良かった」

 
 ちょっとおおげさかもしれませんが、なんだか、今日一日、アトリエに入れ替わりで来てくれたたくさんの人と関わってて、そのほとんどがプレゼントとして来てくれたからだったのか、ふと一日中張っていた気が抜けたのか。皆が帰った後一人、小さく笑いながらポツリとつぶやいてました。

 傍からみたらただただ限りなく怪しい 笑。 その後、なんだかそんなことをふと漏らす自分におかしくなってつい笑ってしまっていたんだけれど、普段はこんなこと口に出してまではあまりいわない自分に、なんだか胸が温かくなりました。


僕はそんな来てくれた皆に、そして、そんな言葉をかけてくれた言葉に、心から感謝しました。それは、僕が生きている、というよりも、生かされていることを感じさせてくれたことが、何よりもの生きている実感に変わったからでした。




よく、最近アトリエにいて、年を聞かれるのと同じくらい、出会う人、出会う人に聞かれることがあるんですね。

「いままでどうやってここまでこられたんですか」って。

どうもみなさん、とても僕の年と経緯に興味があるらしく(笑)そのたびに同じ話を簡単に繰り返しするのですが、話していて気付くことがあります。

今では笑って話せること程、実は昔、立ち直れないぐらいに辛かったことでもあったということ。

それはきっと、どんな人もまた、同じなんでしょう。そんな気持ちがこみ上げてきます。


今、何かにぶつかっている人も、今までぶつかってきた人も。僕なんかよりももっと長く生きてこられた人はもっと、その「生きる」ということへの真髄を知っていらっしゃられると思いますので、決め付けてしまうことはどうかと思いますが、僕は生きる、ということは「そういうこと」なんだと想うのです。

まだ若造の自分がこんなことを言ってしまうことは、とてもおこがましいのですが、僕は生きるということはいつだって、この繰り返しなんだと感じずに入られません。

それは、僕がいままでこの少しの人生の中で感じてきたことでもあるし、また、色々な方のお話を聞かせていただいた中で感じてきたことでもありますし、そして、それはたくさんの人間以外のことにもちゃんとあらわえているものです。


晴れの日もあれば、雨の日もある。谷があれば、山があるように、海があれば、空がある。この世に昼があり、そして夜が来る。


一見、当たり前にあるように見えて、実はこの世界にあるものは、この世界の「全て」の真実や答えを説いていることでもある。

それは、生きること、そのものが「有」であり、「無」にはなれないんだということ。表があるのなら、裏が存在するように。それが一対のものとしてあってこそ、初めて「存在」というものが形になって現れることができること。

それは、人生、命をもらっている限り、生きている限り、決して、「無」にはなれないということでもあり、「無」になるということは、嫌なこと、苦しむことはなくなるけれど、楽しいことや幸せなこともなくなる、ということでもあって...。

それを人は「生」と呼ぶのではなく、「死」と呼んでいるのでしょう。

つまり人間は生きている限り、「生」という「有」である限り、生きることへの喜びも苦しみも、共に享受して生きてゆくこと。それは生まれてきたことへ本当の定めなのかもしれません。


そう考えると、生きる、ということはですね、とても辛いことかもしれませんよね。そう思ってしまうと人間、どちらが幸せなのかはわからないのですが、でも僕は。

せめてこの生まれ持ったこの命を誰よりも大切にしたいと思います。そして、その命が尽きるときまで、僕が生まれてこれた、その意味を真っ当していくこと。そうできることが僕にとって実は、何よりもの幸せに変わっているのかもしません。

 それは、雨の日を否定することじゃない。雨の日も、晴れの日も。その全てを受け入れて、その全てを生きることと知った上で、このいまを笑顔で生きてゆける、そんな人間になってゆきたい、ということです。


そうできることがきっと、生んでくれた人への一番の感謝になるのではないか。

つまり、皆さんの、自分の両親への一番の恩返しに代わるのではないかと、

僕は思っています。
 


僕が終わらない夢をもつことは、「生きる」ということに終わりがないことを知っているからです。どこまでいったら、生きることがおわるというわけではない。人間、「死ぬ」ということを通して、そこで初めて、自分の「存在している役割」が終わるものだと思います。

 そして、それが一つのゴールであり、でも、終わりではない。それは「夢」というたどり着き、自分の存在が残した形が、次に。後世に残ることによって生きてゆく、「存在した」という新しい形の「始まり」を生んでゆくものに変わってゆくものだと思います。

 僕が残したいものは形のある自分の「お金」という財産ではなく、そんな形になっている「想い」なんだと思うのです。

 
僕はそれを知っているからこそ。この今をいきることを誰よりも一生懸命になれる。そして、自分の人生に、生きていることに。誰よりも正直に生きてゆく。それを大切にできるのだと思います。僕はいつかは、死んでしまうことをわかっているからこそ、もちろん、時々生きることに疲れてしまうことはあるにしても。その時まで、いまを生きることを最後には大切にしたいのです。


「死を意識することをやめたら、人間死んだことと同じだ」

ニュアンスは違うのですが、どこかでそんなような言葉をみたことがあります。いままではその意味が分かりませんでした。でも、それはまさに、いま僕がよく感じていること、そして、よくわかることでもある言葉になっていて。

僕はそんなことも全部含めて。人がすきなんだろうなぁとつくづく感じることがまた。多くなりました。


今の話も含めて、それは、僕は今、全ての人が置かれている事情にも言えることだと思うのです。

先程書いたお母さんのお話ですが、実は、決して良い話ばかりを聞くわけではないんです。むしろ、親と子がうまくいっていない場合の方が多いのもまた事実です。

様々な人の話を聞いていると、どうしてもお母さんのことが許せない。お母さんという存在が大嫌いだ。そういう方もいらっしゃいます。僕が話を聞いていても、それはひどいな、というお母さんも実際にいることも現状です。でも、そういう中を持っても、最後は、「母」と「子」という関係は変わらない。少なくとも、僕は全く、相手を思う気持ちがないという関係の親子というものは、ないと思うのです。
 
逆に、もうお母さんに会えない、という人もたくさん見てきました。

「母の日が来るたびに、どうしようもない気持ちが沢山生まれてきてしまって、辛くなってしまう。」

ある事情で、もう絶縁状態になってしまった人からその言葉を聞いた時、なんて言葉を返したらいいのか分からない、そんな気持ちになってしまったことを良く覚えています。そういった意味でも、様々な問題はあれど、今ここに「お母さん」という存在が「いてくれる」ことはとてもありがたいことなんでしょう。


「人間、生まれてくる親は選べない」という言葉もよく聞きますが、確かにその通りです。難しい問題ですが、でも、もしもその人がいなかったら、いてくれなかったら、良い意味でも悪い意味でも、少なくとも自分という存在はそこには居なかったこともまた事実であって....。

何かしら、そんな思いも含めて、生きていることへ感謝できる、そんな自分を大切にできれば。僕はおのずとそれは、生んでくれた人への感謝へも変わってゆけるものだと思います。

僕が今回、なぜこの話をしたかというと、これが、母の日に関して、皆さんから教えてもらえた、そして、そこにあった一つの生きる、ということへの事実だったからでした。色々な気持ちが一人一人あるものですが、こう思いあえる日がくれば人間一番です。

何かしらこの月記が皆さんの笑顔に変わってくれていればと、そう思っていつも書いているのですが、また一つ、こんな気持ちを通して、皆さんが今ここにある幸せや気持ちを大切にしてもらえたら、とても嬉しいです。





さぁーーー、こんな感じで今回の月記も終わってみましたが、どうでしたか?今回は今月の母の日にちなんでということで、生きることへの想いと一緒にかけて綴ってみました。
最近はね、なんだかとても忙しくて、気付くといつも忙しいといっているハタサンですが 笑、そんなこんなでなかなか自分の為の時間をとることができなかったのですが、今日は思い切って月記を書くためだけの日にしてみました。晴れた日に窓を全開にして流れる柔らかい風と共に空をただ眺めているだけでも、また気持ちがゆとりができたりして。
そう考えると、自然というものは人間にものすごく大きなものを与えてくれているんだなぁと思ってしまいますな。うーーん。
なんだか、こんな大きく広がる大空のようになりたい。

えへへ。決まった?(なにが?笑)


というわけで、今回はここで終わりです☆

また来月も皆さん、楽しみにしていてくださいね。

いつも遠くから応援してくれている皆さん、そしていつも見守ってくれている全ての皆さんに心から感謝します。

皆さん、
いつも本当にどうもありがとう。

これからも頑張りまするぞー☆

















見上げれば広がる青空は

僕に生きていることの素晴らしさを教えてくれる。

大気に満ちたこの星は

僕に生きていることの奇跡を伝えてくれる。


僕らが生きているこの地球は

大空を駆ける鳥のように

自由に生きる術を与えてくれる。


鳥は飛ぶことを教わったのではなく、
飛ぶために生まれてきたように、

人は夢をもつことを教わったのではなく、
夢をもつために生まれてきた。


あなたという存在は
この長い歴史がはぐくみ、
重ねてきた地球が生んだ

生きるものの「最先端」の意思の表れ。


生物が「進化」を遂げることが
命という持つべき宿命ならば、

人が進化を遂げてゆくのはやはり、
この心の中にある、

想いからなのだろう。



全ては一人一人つながっている。

全ては一人一人につながってゆく。

あなたは地球が生んだもう一人の姿。

あなたは人類が求めた末端の姿。

あなたは全ての思いを経て
今このときを生きている。

あなたは一人であり、
全てはあなたと共にある。


いつか死を意識したとき、
人は人の為に生きていると感じるだろう。

人が人であることを避けられないように、

人が次を結ぶ命の架け橋にすぎないものだと気付いたとき。


そこに人は

本当の生きる意味を見出してゆくのだから。
(2004.05.31)
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