2004年06月の日記

人間であることの優しさと切なさの間に。



日差しの暑さに身を悶え、早くもクーラー病になりそうなこの季節。
皆さん、いかがおすごしですか〜??
癒し人 ハタタケルです。

なんだかね、毎回毎回言っているんだけれど、一ヶ月ってほんとに僕の中ではとても早くて。何でこんなに早いのかって、そんなことを考えていたんですね。
まぁ、考えてもそう思うものはそう思ってしまうわけで。笑
月記がくる度に、今月も終わるんだなぁ〜〜、という一つのけじめのきっかけにも変わっていたりもして。
季節の移り変わりと共に、今を生きている人間もまた、少しずつ変わっていく。成長してゆく。
そう思うと、地球と共に歩んでいる人間は、共に今を生きることを大切にしているんだなぁと感じられます。幸せなことだなー。うんうん。


最近は、めっきりとみなさん、夏バージョンの装いで、なんだか気分はもう夏ですね。
年々思うんだけれど、年を重ねるごとに暑さが勢いを増しているように見えるんだけれど...僕だけかなぁ。
近頃気づくようになったのは、ハタサンはどうも、暑いのが苦手らしく。
長野県民の血なのかどうなのか。ずいぶんと暑がりなようで-_-;。
早く秋になってほしい次第です。とほほ。


さてさて。今月はですね、とても素晴らしいとある出会いがあったんですよ。
今月は前振りなしにいきなり本題にはいっちゃいたいと思います。
前書きが思いつかなかったということはおいといて。なはは☆ 
笑ってごまかしておきます。

今回はなんと二部作でお送りします^^











ある晴れた日のことですね。この日も僕はアトリエで創作活動をしていました。
いつもと同じように中にいたのですが
そのとき、お客さんが来てくれました。

そして、悩みを話してくれて、それについて筆をとろうとした時。
「ちゅんちゅん」と鳴くすずめが一羽が目にとまったんです。

それだけならばなんてことない、普通の光景なんだけれども、どうも様子がおかしい。

そのすずめは車が近くを通るのに、人がその脇をたくさん行き交っているのに、
ちゅんちゅんと鳴くだけで、そこから動こうとしない。

なんだか危ないなぁと思ったので、筆をとめて近づいてみると、
そこにはなんとまだ巣から出て間もない小さな小さなすずめ。(でも、見た目はちゃんとしたすずめ)


どうもこの様子だと巣から落ちてしまったのか、もしくは、
巣立ちの段階でうまく飛べずにそのまま下に落ちてきてしまったのか。
僕が手を伸ばして、その子をそこから移動させようとしても、そのすずめは動こうとしない。
それどころか、羽をばたつかせながらなんと手のひらに乗ってきたりする 笑。


おいおい、僕はあなたの親じゃないですよ? 
でも、まるで飛ぼうとする意識もなく、あたりをきょろきょろと手の上で見渡して、僕のほうをじっと見ている。


その瞬間、衝撃が走りました。


か、かわいい!!

 
「どうする〜〜、アイフル?」


一瞬、あのCMが脳裏を横切る。(想像できるっしょ?)笑



小さいすずめを間近でみたことは子供のとき以来だったけれど、こんなにも小さいすずめを手のひらで乗せてじっと見たことは初めてで。

ただ、すっかりこのすずめの虜になってしまったはいいものの、
この子をどうしたらいいのかわからない。
むしろ飛べないのだから、このまま放っておいてもだめだし、近くの公園の草むらに置くとすると、猫に食べられる可能性がある。などなど色々と考えてみてもわからん。


...というわけで、僕のアトリエの机にしばらく置いて、様子を見ることにしました。
はい、拉致...ではなく、保護ですがな。もう。笑


その子は僕のいる目の前と、そのお客さん二人の目の前の真ん中のテーブルに置かれてしまって、かなりきょろきょろと挙動不審。
そりゃそうだよねぇ。めったにない光景だもんねぇ。

大丈夫だって。捕って食ったりはしないから。ね? むふふふ。かなり怪しい。




でもね、結局。

やっぱり一番落ち着かないのは、すずめでもなくやっぱり僕でした^^;。
どうもやはり親鳥と思われるすずめが外で鳴いていて、それにあわせてその小雀も鳴いている。

「やっぱり、心配だよなぁ。心配して鳴いているんだよなぁ。」

そう思った僕は、しょうがないから返してあげることにしました。泣

当然である。


そこで考えた結果、僕はアトリエの屋根に放すことにしました。
そこだったら、車に引かれることもないし、人に踏まれることもない。...猫はわからないけれど。


...と、いうことで、となりからはしごを借りてきて、屋根にもってゆくためにそっとそのすずめを手ですくった時。

なんだか。

とてもとても不思議な気持ちに襲われました。




そのすずめはとても暖かくて。触って手のひらに包んだとき、その小さな心臓が動いている、脈を打っている、その音が聞こえたのです。

その鼓動を手のひら全体に感じたとき。うまく言葉にできないのですが、一言で言うと、感動。いいや、一言で言えない、感動。とにかく、なんといえばいいのかわからない、感慨を受けました。(なんやねん)

こんなにも小さいすずめなのに。手のひらに収まってしまうぐらいの大きさなのに。その手のひらいっぱいに、そのすずめの、もうちょっというならば、その命の暖かさを感じた。その感じたぬくもりとは、ほかでもない。僕は普段、触れている人間の鼓動と暖かさとまったく同じだったことに気付いたのです。

何でこんなに小さい体なのに、この体のどこに命が詰まっているんだろう、と。どうやったらこんなに小さい体に、人間と同じそんなぬくもりをこめられるのだろうと。肌で触れたその命のぬくもりは、生きていることの奇跡を感じるには十分でした。


人間がいくら技術を駆使しても、命をゼロから創ることはできない。でも、もしも、神様がいるとしたら、神様は一体どんな力を使って、こんな小さな「入れ物」に人間と同じ命や心臓の鼓動を与えたんだろうって。
こんな小さなくちばしも、くりくりのすごく小さくちゃんと瞬きをする目も。
まじまじと見れば見るほど、その素晴らしさに感動。

僕の中で、その手のひらで包んだ一瞬の間の時間だったのですが、そんな思いが駆け巡り、これほどにない想いを感じた気持ちになりました。

赤ちゃんを抱くのとはまた違う。小さな小さなぬくもりの中に感じる暖かさ。

それは、まさに僕が感じた中での奇跡でした。




人間は、ほんのささいなことで、いがみ合い、殺し合い、場合によってはそんな小さな小さなここにある無垢の命さえ、知らず知らずの内に奪ってしまうこともあって。それは、戦争も然り、どんな紛争も然りで....。
それを考えると、なんて人間という存在は愚かなんだろうと、そう感じもしてしまったり。
僕はほんのちょっとの間でしたけれど、その子がアトリエの入り口に落ちてきてくれて、僕のほうを向いて鳴いてくれていた。その小さな小さな出会いに、ものすごく感謝しました。

そんな大切なことをまた、こんなところで考えさせてくれた。


出会いというのには、必ず僕は意味があると思って、いつも考えています。それは、今までもずっとそうでした。

そのときそのときだからこそ、出会える出会いがある。その出会いというものは、また、別れも付き物で、そのときの自分に見合ったものが僕は訪れてゆくものが出会いであり、別れであると思っています。

今回、こうやって出会えた子すずめもまた、へんなやつ(笑)に拾われて、ごめんね、すこし怖い思いをしたかもしれないけれど。僕は今ここにある小さな小さな命の尊さをかみ締めたくなりました。命を大切にしなくちゃいけない。

それは、自分も然り、また、自分をとりまくすべての命も然り。

こんなにも小さな体で人間と同じぬくもりをもって、今を必死に生きているのですから。


下手すれば、タイミングが悪かったら、車に引かれていたかもしれない。人間に踏まれていたかもしれない。または、猫に食べられてしまうかもしれない。
そのすべてがたとえ運命であったとしても。

そういうことを考えるほど、尚更。この出会いが教えてくれたものは大きい。

この子の親から見たら、この子が車に引かれてしまって死んでしまったとするならば、その思い、というものは、きっと言葉に出せずとも、人間の親が子を失う気持ちと一緒でしょう。
僕はそれを考えたときに、小さなこのつながりがある、普段、考えることの少ない命の絆は無条件に同じなんだと。人間と同じなんだと。

僕はそう思えてしまいます。




今、子供達が命の尊さを感じられずに、胸が痛くなるような、そんな事件が多くて。
ニュースを見るたびに、ものすごくなんて表現したらいいのかわからない、そんなもどかしさを憶えてしまう。

それは、きっと、このような命のぬくもりに触れる機会がないから。
そして、それを直に教えてくれる人たちや、大人がいないから。
それは本当に悲しいことです。
あまりにも生きることの本質から離れすぎた世界を作ってしまった文明の大きさは時に、そんな心を持った人間であることを忘れてしまうひずみを創ってしまっているようで。
だからこそ、僕は小さくとも今の自分のできることを大切にしたいと感じては、
こうやって日々の中で感じられる奇跡を感じれる心やここにあるぬくもりをちゃんと守ってゆける自分でありたいと、そう思うのかもしれません。

その繰り返しを通して少しでも、誰かの心に届いてゆける道を創っていってくれることを僕は知っているから。

それを思い出してくれたり、確認してくれるのは、気付くといつも、

こんな小さな出会いからでした。

そう思いながらも、屋根に上り、放してあげた小雀は、ばたつかせながらも親すずめに羽ばたいてゆきました。
さっそくそれを待っていた親すずめが駆け寄ってきたのを見計らって。

......はばたけるんじゃんっ!笑

つっこみを入れながら、そんな後姿がとても愛おしく思えた日でした。あはは☆


すずめさん。すずめさん。早くちゃんと飛べるようになって、また新しい命をはぐくんでいってね。ちゃんと今度は落ちないように、大空を羽ばたく。そんな生まれてきた限りを尽くしていってね。
鶴の恩返しならぬ、すずめの恩返し。お待ちしております。

なんちゃって。なは☆

良い話が台無しでございます。笑






えーーさてさて、話を変えて、今回はなんともう一つのお話を載せてみました。

前の物語を「明」とすると、今度は人間としての「暗」。

こちらはちょっとしたハタタケルの私的なことも含めつつ...。笑 
ご覧くださいませ。

それでは、第二部です。









人間は愚かな生き物なんだろうか。


たとえば、人は今を生きる限り、
そこには、新しい成長がある。
でも、そこには、新しい別れがあり、自分がいる。
もしも、そのときそのときで、自分にとって「大切」といえる形が変わったとして、
それを人はいけない事というのだろうか。
それとも、それを人は愚かなのだというのだろうか。


今の自分にとって大切にすべき存在は、僕にとっては「今」自分が大切にしている存在のことをいうのだろうな。

ふと、そう考えることが多くなった。



僕は生きることを重ねるたびに考え方がシンプルになってゆく、と前に日記で書いたこともあるんだけれど、年々振り返ってみると少なからず、
去年の今と、この今は、自分の状況も、周りの環境やつきあっている人、その状況も。全く違っていることに気づく。

もちろん、変わっていない部分も含めて。


去年の今頃はこんなことで悩んでいて、こんな状況で、こんな人達と一緒にいて...。


それはそれで、今思うととても大切な宝物。
でも、それは二度と戻りはしない。

人はそれを「過去」というのだけれども、僕はあまり過去を振り返りたがらない。
いや、過去は過去で、今思い出すと笑ってしまうことや、今でも思い出として大切にしていることはたくさんあるけれど、

結局、それはそれ、なんだと思う。



僕にとっての過去は過去でしかなくて、それ以上でもなければ、それ以下でもない。
「自分」にとっての一つ一つの歴史が終わり、新しく歴史が始まっている。

そんな感じを憶える。


それは、ある意味、たとえ過去に関わった人がいたとしても、
今の自分にとって、いや、お互いにとって、その関係は今も「持続」していない限り、
その関係は今のお互いにとってプラスになるものではない。ということ。
つまり、過去に出会った人は過去の出会いであり、それは今に無理やりにこじつけてつないでゆく必要はないということ。


それは、ある意味、川の流れに身を任せるような、
そんな自然な流れを享受する感じ。
自然であるからこそ、それを受け止めてゆくからこそ。そのつながりが切れるのも、つながってゆくのも、全ては自分の人生にとっての是非を問う答えにもなってゆけるのだと思うのです。


それを大切にしたいからこそ、僕は今を生きることに難しさを必要としない。
今を生きる喜びを求める。
そして、今を生きる、ということを誰よりも大切にできる。


そんな自分になっているような気がします。





よくこの話をすると、たまにちょっと冷たいんじゃないか、という人もいます。
この人生、関わる人も限られていて、そこで出会った、培った、そんな想いは何かの縁があったからこそ。
だから、そういうことは少し違うんじゃないかと。

うん。確かにそれはあるかもしれない。
そこで培った出会いは、やはり、一つの縁であり、その中で気持ちを交わしあうことも悪くはない。

でも、
もしも本当に大切な人であれば、僕は何をせずともちゃんと今でもつながっている人であろうし、
僕は今、自分にとって大切といえる人がいないかというとそうではない。

昔からずっと変わらずに仲がよい人は今でも変わらずに仲がよいし、
どんなに遠く離れていたとしても、連絡をとらなくても、それは変わらないものだ。

それは、相手がどういう人かをお互いがよく知っているからだと思うし、そこにいたるまで、お互いの関係を形だけの関係、蔑ろ(ないがしろ)にしてきたわけではなく、お互いを必要としあい、求め合った関係が「続いた」からこそ。
そこには、決して、損得勘定で人間関係を図るものとは限らず、それを超えた「何か」があるからこそ、その”つながり”であることもまた、事実なんだと僕は思います。

もしも、「縁」という言葉を使うのならば、それを本当の「縁」というのではないだろうか。

そして、でも、そうではなく、たまたま昔知り合った人と、また関係を築こうとすることはナンセンスではないだろうか。

そういうことを踏まえて考えてみると、僕にとっての「それ」は無駄な時間でしかないことは確かだ。



昔のことを振り返り、あのころはこうだった。よかった、悪かった。
それを時には思い出して笑うことはいいかもしれない。
でも、それが「今」に対しての不満による傷のなめあいでは全く意味がないし、
そんな環境に巻き込まれることもごめんである。笑


僕はそういった意味でも、昔の出会った人から突然電話があったり、今でもまるで仲が良いといわんばかりの感じを装って連絡をする人や、そういう類がとても苦手で..。笑
もどかしいを通り越して、なんだか悲しくもなる。

僕にとって、そういうことがあることは、今の状況に、今を生きている環境にその人が満足できず、寂しさを覚えているからなような。
そんな背景と共に、その寂しさを分かち合う仲間を昔の人に求めているようで、僕は正直ものすごく不快な気分にもなる。

昔は昔のことでいい。
だけれども、今まで全く連絡もなくつながりも途絶えている人がなぜ馴れ馴れしく声をかけることができるのだろうか。
同窓会とかならまだしも、僕はそれはとても失礼なことにも思う。
だって、お互いはお互いをどこかで望まなかったからこそ、今まで共に関係を持たずに生きてきたのだから。
そこに、今の自分が寂しさを憶えていたり、その時のその人の勝手な都合にあわせて、連絡をしていることを思えてならないから、僕はとても不快になるんだと思う。

僕の活動を通して、僕自身も色々と物事を重ねてゆくうちに、色々な人から目に留まることも多くなるのですが、
僕は決して、流行すたりでこの活動を行っているわけではないし、誰かの真似事をしているわけでもない。
僕がここにある「心」をただ大切にしたいからこその想いであり、生きることであり、それは「形」で図れるものでも、図ってしまうものでもない。
でも、そんな自分をみて「形」だけを求めて来る人は僕はとても悲しく思う。
有名になったから、とか、そんなことで、連絡をしてくる人程、僕にとって腹立たしいことはない。
形を求める人は、形だけを見ているから、結局そこにある「本質」が見えない。
結局、自分を持たずして生きているから、周りに流されて生きるだけで、何が本当に「自分」にとって大切なのかがわからない。
でも、形が変わるとすぐ取り繕いを変えてしまうし、流行すたりで物事の是非を考えてしまう。
それは、とてもとても悲しいことです。

僕にとって、大切なのは、そこに「純粋に」ただ、必要としてくれる人のための僕が在れること、あること。 
僕はただ、有名になりたいからの活動ではなく、
自分が少しでも大きくなることで、そこにある心をたとえ少しでも汲める自分で在れるように、そのための手段を広げられる自分を大切にしてゆきたいだけなんです。

大切なのは、
その人にとって、それが必要なのか、必要ではないのかをちゃんとはっきりといえること。
そこには「形」だけの体裁は必要ないはず。



ある意味、そういえることは僕が人間として生きる弱さを少し忘れてしまったからなのかもしれない。
でも、僕は生きる強さだけをただ抱いている人間というわけでもない。

今まで僕も弱い自分も知っていて、
そういう人間にはなるまいと、自分の中で日々葛藤してきたからこその
言葉なんだろうと、

自分のことながらに客観的に思う。



過去を今に生きる基盤に変えるのでなく、今を生きる基盤に変える。
それは人間が今を生きてゆく上でとても大切な心得にもなるんじゃないかと僕は思っている。
そこに未来がなければ、人は、今を生きることに何も意味を見出せない。
でも、人は間違いなく、今これから「未来」という先に向かって歩いている。
それは紛れもない事実なんでしょう。


今、これからを見出してゆくことに歩みが必要ならば、
僕は喜んでその新しい別れとスタートに、「自分」も含め、その人へのエールと祝福をいつでも送れる自分でありたい。

たとえそれが今後二度と関わることのない、一つの別れだとしても。
そこに涙があったとしても。

だからこその、今であり、これからであることを

僕はちゃんと知っているから。












人間が生きる生き方には人それぞれの生き方があって、
そこに良いも悪いもない。
その人の生きる姿や考えることが
僕はその人が求める姿なんだと思う。

一人一人の生き方がそのものの答えだからこそ、
僕の生き方が決して正しいわけではないし、それが正しいか間違っているか、
それを考えること自体が無意味なこと。

今回、こういう話をしたのは、自分の生きることへの価値観の正当性を問いたかったわけでもなく(笑)最近、僕にとってそんなことを考えさせられるようなものが多いもので...。
そんな僕の生き方や考え方を提起することで、皆さんにとって、生きる、ということがどういうことか。
それを考えて見れる、そんなきっかけ作りができればいいなと思ったからでもありました。


まぁー、いいお話ばかりよりも、ちょっとこういう人間らしい部分を書いてみてもまた時にはいいんじゃないかなと。
ハタタケル、という人間の深い部分も今回はさわりとしていれてみました。



あなたはどっちのお話のほうが好きでしたか?











また今月も終わり、なんだかんだで来月もまた忙しい月に変わってゆきそうです。
夏だし、夏は夏らしく海やら何やらにいきたい気持ちもあるけれど、
どうもそういう流れでもなさそうだしねぇ。
うんうん。

この夏が終わりを迎えるころ、また新しいスタートがそこにはあるんだろうなぁ。


皆さんにとってのこの夏、
どのようにすごしてゆきますか?

せっかくのこの夏、
皆さんにとって思い出がたくさんつまった夏に変わりますように。

また皆さんにお会いできる日を楽しみに待っています^^


ということで、
今回は、これまで。

皆さん、いつも本当にどうもありがとう!!

また皆さんにとって、うれしい内容をお伝えできるように
僕もまた頑張って行きます☆

皆さんの笑顔に変わりますように。

皆さん、

いつもどうもありがとう!

また来月の月記でお会いしましょー^^v


















雲を見ていた。

昔、見上げていた雲と
今の雲は違って見えた。

それは、雲が変わったわけではなく、

僕が時を経たからだった。


星を見ていた。

昔、見上げた星と比べて
今の星は輝きを失ってなかった。

それは、星が変わっていないわけではなく、

僕が同じ思いで星を見上げているからだった。


昔、見上げた世界と今の世界も変わっていた。

それは、

昔、見ていた世界には夢がなかったからだった。




人間はただ生きることもできる。


でも、
ただ生きることだけでは人は
「大切」という意味を知ってはいても、
その意味を問う術を知らなくなる。

もしも、
今ここにある世界が、
昔誰かが「大切」にしてきた胸の内の独り言であったとするならば、
その独り言は決して、
独りよがりではなく、
想いを共有してこれたこと。

それは決して寂しさを埋めあわせるための寄せ集めではなく、
今を生きる思いを重ねた結果なのだ。



もしも時代が変わるのなら、
人もまた変わってゆく。

周りはたとえ変わっていなくても、
人はそれを変わってみてしまう。

もしもそこに真偽を問いたいのならば、
何が正しいとするべきことなのかを問うことではなく、

何が自分にとっての大切にしている心なのかを
忘れないことが

本当のその人の目に映る世界を築いてゆくのだろう。


地球は今も回っている。

時代は今も巡っている。



あなたは今、


何を思う。


あなたはその眼に、


何を写す。
(2004.06.30)
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