2004年07月の日記

尊き声は、蝉時雨の喝采の中に。



「みーーん、みんみんみんみーーー。」

ううーーん。せみ。

どこ行っても、みーんみんみんみーー。

うーーん。せみ。

どう考えてもこの声はせみだよねぇ。頑張って生きているねぇ。

耳を澄ますと、すっかりもう蝉時雨の季節。
夏を感じずにはいられません。
皆さん、いかがお過ごしですかーー?
こんにちは!
癒し人 ハタタケルです^^

いやーーー、暑いなんていうもんじゃない暑さが続くこのごろ、皆さん、元気にお過ごしですかーー?

ハタサンはね、すっかりともう夏気分で、ちょっと気分替えをしちゃいたいなーと思い、髪の毛もかなーーりばっさりとしてしまいました。
はい。

そうしたらね、皆さんの反応が素晴らしいこと、素晴らしいこと。
僕のことあまり昔から知らない人たちは「あー似合う似合う。」ですむのですが、(お世辞でもここは許可 笑)昔から癒し人としての僕を見てくれている人達はそーではすまない。


「うえええええええぇええ!!!!!」

はい。

ものすごくショックを受けてらっしゃる。
「えええ!」の前に、ご丁寧に「う」までつけて下さってる。あ、「え」の中にも強弱がある。関心関心。

ええ、100ショックらしいです。
そのリアクションをみて、こっちもなぜか100ショックを受ける。
そもそもその100ショックがなんの単位なのかが不明なのであるが、とにかく100ショックらしいです。
ハタサンじゃなーいと半泣き状態の連発でした。
こっちが泣きたくなるわいっ!笑

とにかく、どうもくるくるの髪の毛が長いのが僕の特色らしく、極短はあわないというのですよ。
...というより単に僕が髪切るのがめんどくさがりなだけだからなんですけれどね 笑

えーー!まー確かにさーー、今までのイメージが強い人には、変かもねぇ。極短にしたのは今回が人生振り返ってみれば初めてだけどね、僕は似合うと思っているんですがね。これって自己満....なんでしょーねぇ。なは☆

でもまぁ、世の中なんてものはいつも自己満から始まっているので(←こういうときこそプラス思考)、
そこらへんは皆さん、許してあげてくださいよ。
まー、三日もすればなれますって。
あはは!!

そんなばっさりの僕の髪の毛をみて、僕の親友がぼそり。 

「今年初めて夏を感じました。」

ふふふ。してやったり。


さぁーーーー!!よーいはいいかーい!?レッツ!サマー月記!!!






皆さん、今年の夏はいかがお過ごしですか?
僕の今年の夏はですねぇ、今のところ何があったわけではないのですがね、僕にとってとても大きな出会いの月になりました。

出会い....といっても、世の中には色々な出会いがあるのですが、僕の場合、もちろん、この活動を通しての出会いです。

今月は、ちょっと、僕の出会った真実のお話を皆さんに少しおすそ分けしちゃいます。








今月はですね、本当に色々な出会いがありました。
振り返ってみると、それほど多くの人には会っていないのですが、その内容はとても濃いものでした。

特に、今月の出会いの中で一番多く深かった出会いは、僕の本「ほら、幸せはいつもここにあるよ」を通して、出会えた人たちが多かったのです。

それは今回、月記を綴るに当たって、今月この本が縁となって、僕に出会ってくれた人、連絡をくれた人が僕に教えてくれたことがたくさんあることに気付いたからでした。






別れ、というものは人それぞれの出来事があります。
それがたとえ、恋愛の別れであれ、亡くなってしまうことの別れであっても。
僕はその痛みは皆、大きさは違えど、最終的にいたるところは同じだと思うのです。

結局、別れ、というものは
ある意味、心の中で、その気持ちを昇華してゆくこと。
そのためには時間もかかるし、そして、
何よりも、必ず誰もが痛みを伴うということです。


この僕の本を出してから、
全国から様々な方のメールを頂いているのですが、(メールを返しきれていない皆さん、本当にすみません^^;。)
でも、その多くは実は。
別れ、を伴っている方からメールを頂くことが多いのです。

もちろん、それ以外の方もいます。
この本に出会って、たまたま手にとって。
そして、自殺をしようとしていた人が思いとどまった、と
メールをくれた人もいました。

すごくすごくそのような本当に心の入ったメールを頂くとなんともありがたいの気持ちで一杯になるのですが、
どうか僕はそんな想いを大切にしてほしいと思うのです。

人間、誰だって、命を絶ってしまったほうが楽なことも人生はいくらでもあることでしょう。
でも、同じぐらい、生きていて良かったと思えることがあることも実は人生で....。
そして、何よりも。

別れ、というものが、どのくらいの痛みを心に伴うのか。

それは、残されたものにしかわからないものです。
そして、自分が死んでも泣く人はいない、といってしまうこと程、実はそうでもないことは、死んでしまった後にはわかりません。

そういうことを聞くたびに僕は再度、そんなようなことをたくさんの方から教えて頂きました。




別れ、ということに関して、
先日、アトリエにこんな方がいらっしゃってくださいました。

この方は、僕の本をみて、わざわざ遠方から来てくれたのですが、とても感じのいいさわやかな笑顔をする方でした。
そして、プレゼントに色紙を書いてほしいといわれたので、どちらの方に書きましょうかとたずねると、ある女性へのプレゼントにしたいということでした。

一見、悩みをもっているような感じの雰囲気ではなかったのですが、どうも話を手繰ってゆくと、つい何ヶ月か前にずっと付き合っていた人と別れてしまったらしいのです。
しかも、8年間。付き合ってきた彼女さんから別れをつげられたそうです。

原因は、「将来」へのずれ。

どうも彼女さんは結婚を望んでいたらしく、その方は今すぐに結婚とは考えられなかった。
でも、その彼女さんとは結婚をしたくなかったんですか?と聞くと、そうではない。でも、どうも今すぐに、ということは考えがなかった。
それでも、別れてしまった今でも、その人とは一緒に遊ぶことも多いし、連絡もとる。

お互いにどうしたらいいのかわからない状態のようでした。




その話を聞いていたとき、その方は笑って話をされていましたが、僕はとてもその方の気持ちも、そして、それがどれだけつらかったのか、どれだけ受け止めることに時間がかかったのか。想像するにおよびませんでした。

現に、別れてから4ヶ月ほどたつのに、状態は変わらない。「もう、自分の中でも、彼女とはいいんです。」そういっていたことも真実であって、でも、大切な存在であることも真実で..。だから、この彼は、一つの決断を下しました。



それがこの彼女へのプレゼントでした。

その言葉は、簡単にいうと、「どうか幸せになってほしい。」ということ。

それを僕に書いてほしいと、いってこられたのです。






一度、考えがずれてしまったとき。
人はそこから新しく修正して、元の関係に戻すこと、というのはとても難しいものだと、僕は思います。
もちろん、その度合いにもよるものですが、今回の場合、彼女さんがこの方と将来つながることができないと思い、今まで進んでいたもの先が急になくなってしまったとき。自分の行くべき所を見失ってしまったのでしょう。そして、彼女さんは「自分の人生を大切にすること」を決意したようです。
その自分の人生を大切にする、ということは、「自分の今を楽しめることをする」ということ。

彼女さんは、今までの彼女さんとは違っていました。





この方は、全てをわかっていました。
ちゃんと、自分で状況を理解していましたし、彼女さんが今、もしかしたら誰かと付き合っているかもしれないことを予測していた。それでもいいのです、と彼は言う。

でも、それでも。受け止める、ということはとても難しいものでしょう。
8年間、培った思い出があるのなら、それを自然に昇華しようとすることは相応の時間も必要。でも、その痛みを誰かに代わってもらうこともできないし、寂しいからといって、誰かを好きになろうとすることでは解決できないことも知っている。
それはきっと、この彼女さんも同じなのだと思います。だから、今でもお互いに連絡を取り合うことを切ることができない。でも、お互い、どこにその気持ちを向かわせたらいいのか、わからない。

ある意味、深く重ねた恋愛での別れ、というものは、「場合によって」何よりもつらい別れに変わることがあります。
もちろん、その状況の違いにもよります。たとえば、亡くなった方に対しての気持ちをどこに向ければいいのか。それを考えるだけで、この今から逃げてしまいたくなるような気持ちになります。もうそれはどうしようもないものです。

でも、恋愛の別れも、受け止めるということということでは、意味は違っても、その想いは同じもの。ある意味、別れるということは、その人の中で「死んでゆく」ということと同じことにもなるのでしょう。


では、その何が違うかというと、逆なんですね。そこに受け止めることではなく、割り切れる理由がそこに存在しない時のことです。

相手がそこにいる。連絡をとろうと思えば、とることがお互いにできてしまう。
それは、亡くなってしまった人にはできないことであるけれど、それができてしまうからこそ、前にもどこにも進むことができない状況にもなることもあるのだと思います。
それを人間の弱さといってしまえばそれまでなのですが、人間、全てが強く在れる生き物でもないことは、たくさんの方の悩みを聞いてもよくわかります。
それは、愛されない恋愛を重ねている人が抱く寂しさと、もしかしたらよく似ているのかもしれません。


そのときに、この本と出会ったということです。

「この本を見て、正直、救われました。」

この方は、この話をしてくれた後に、こんな言葉を僕に伝えてくれました。

でも僕は、この真実を知って、この人の背景にある様々な気持ちを知って、とてもつらくなりました。
この別れは、たとえ起こるべくして起こったことであったとしても、
別れであることに変わらないものですから..。


ただ、僕が一つだけ、伝えられることがありました。

それは、「今、あなたが好きなのは、4ヶ月前の彼女であって、「今」の彼女ではない。」ということ。


この方が今、抱いているのは、確かに別れてしまった彼女さんへの割り切れない想い、という気持ちだと僕は思うのです。それは、決して否定しようとしてもできるものではないものです。
人間、すぐに変わることなんてできないように、逆にそんなに簡単に気持ちを割り切れる人がいたとしたら、逆にその人を疑ってしまいます。

でも、これだけははっきり言えることがある。
好きな気持ちは変わらなくても、今、抱いている気持ちは、「付き合っていたころの彼女さん」への思いであって、今、自分が見ている彼女さんとは違うということです。

真実は、ちょっと、冷静に考えて見なければ見えないものもたくさんあります。
その答えは、「昔」ではなく、あなたが生きている「今」に存在するものです。

もちろん、「今でも好きな気持ちは変わらない。」という方もいるでしょう。
ただ、僕は大切な人を、好きな人を無理やり忘れようとしなさいといっているわけではないんです。大切な人は大切な人であることの関係を今後も築いてゆけるのであれば、それはそれが一番いいのだと僕は思います。

でも、それでも、ちゃんと見なければいけない、見ようと目を向けなければいけない、「今、現在の」真実がある。それは、一番。その人が知っていることでしょう。前に進めない、ということは、ただ単に、「別れた」ということを認めたくないだけなのかもしれない、ということなのです。

どんなことでも、時間は必要です。その思いが深ければ深いほど、それは多くの時間を費やすことになる。それが、自分にとって、お互いにとって、予期せぬ、そして、望まない別れが訪れたとしても、それはそれ以上にも、それ以下にもなることはできない。その事実は事実であることに変わらないのです。


そうなのであれば、それはまず自分がその「事実」から目を背けることなく、ゆっくりとでもいい、心の中で答えを見つけてゆくことしかない、向き合ってゆくことでしか答えは出ないもの。

今現在、別れを受け止めている人はきっとこの世の中にはたくさんいます。それが、恋愛であれ、亡くなってしまったことであれ、それを受け止め、歩いてゆくことほど、つらいことはないでしょう。そして、それは残された人にとって、何よりもの耐え難いことです。


この方は、その中の話をしてゆくうちに、何かしらの答えが見つかったのか。少し、また来てくださったときとは違った面持ちで帰って行かれました。
その手には、彼女さんへの色紙をもって。その言葉は、自分の気持ちとの決別をこめた、そして、彼女さんへの今までの感謝の気持ちと、幸せになってくれることを願った。たくさんの思いのこもった。そんな色紙になっていました。







今回、また違う出会いの中で、
この本を見つけてくれたとある方の彼氏さんがいらっしゃいました。
その彼女さんにこの本を病室に届けてくれたそうなのですが、
この彼女さん、まだ若くして
重い病気をもたれていたのです。

このお話を、この彼女の妹さんに路上でたまたま通って
お話を聞かせていただいたとき、
僕は、
言葉がでませんでした。


僕は何もしてあげられない。

ただ、心から願うことしかできない。
その彼女さん、彼氏さん、妹さん、その家族の方々、その一人一人が抱いている気持ち、受け止めている想い....。
それを考えるだけで胸が張り裂けそうなほど痛くなるのに、僕はただ、言葉をかけてあげることしかできない。
いや、まともに言葉をかけてあげることもできない。

時々そのような状況に出会うたび、僕はそこに何をしてあげることもできない、そんな自分にもどかしい気持ちで一杯になります。



僕は言葉しか、
書くことができません。

言葉は時に、
その人の支えになります。

しかし、
言葉は、その人に代わってあげることはできない、

結局、
行き着くところはそこになるのです。


どんな言葉であっても、
人の心を”全て”汲むことはできない。
本当に本当にどん底に人には、力をあたえることはできない。
気休めでしかならない。
いや、もしかしたら気休めにすらならないのかもしれない。

それをこの活動を行えば行うほど、
僕は痛感せずにはいられないのです。


それは、生きるということの一つの事実でもありました。




先日も、
こんな方が路上にいらっしゃいました。

この方は、
本当にもう八方塞がりの状態。
どうすることもできない状態でした。
理由があり、実家に帰ることもできない。
また、
精神的な疾患を患っていて、体調も悪く、
ろくに働くこともできない。
その状態であるから
一人暮らしもできないために、
浮気を繰り返す彼氏さんと一緒に住んでいても、
そこから抜け出すこともできず、
友達もできない。
ある意味、彼氏さんに依存症が出てきているところもあり、
もう何を言っても、
どう聞いても、
何もしてあげられない。
何も答えてあげられない。

僕はそんな悩みをずっと聞いて、
それを何とか打開策を考えられないかを
ずっと考えていました。

でも、
この方は自分が全てこういう状態を招きいれてしまったこと、自分に非があることをわかっている上で、こういう言葉を発したのです。

「自分は弱いから、流されて不幸になる選択しかできない。生まれてきてから、そうやって、形成されてきてしまったから。」

その言葉を聴いたとき、僕は、言葉を出すことすらできませんでした。

神様は、不幸になってほしくて命なんて授けたりはしないって。
人間は変われるように、努力してゆける。
変わってゆける。

僕はそういいたかった。
でも、

どんな言葉も、
どんな心も、
その人の前ではただの奇麗事にしかすぎないように思えて仕方がなかった。
そういわれてしまったら何も言葉に出すことができなかった。

確かに、ただ単にその人は、自分に甘いだけなのかもしれない。
そうやって強くなれないことを言い訳にしていいわけをして、逃げることで自分を納得させようとしているだけなのかもしれない。
でも、自分の弱さを知っていて、それでも、そうならざるを得ない状況になってしまっているとしたら、そして、その人本人にしかわからない言葉であるとしたら。

そこに当てはまる言葉は見当たらないのです。


度々、もうどうしようもない。
と、僕自身、天を仰ぎたくなるようようなそんな気持ちになるときがある。

まさに状況はこのようなときなのですが、

そんなとき、
僕は、言葉を書くことができなくなる。

生きることの難しさ、
たくさんの人の悩みを聞けば聞くほど、
僕にできることは話を聞いてあげることしかできないことを知ってしまうのです。

僕は無力でした。

こういうときほど、
僕が自分に対して、
悔しくて、悲しくて、そして、
いたたまれなくなることはありません。


人間は、
最後は、どうしても、その人が生きることを選択して、その人が「変わろう」と心から思って、行動しない限り、人間は絶対に変わることはできません。
そして、それを変えてあげることは、ほかの人にも、どんな存在であっても神様にもできない。
その人以外にはいないのです。

周りは、その人自身への「きっかけ」を与えてあげることしかできないのです。

だからこそ、
そういうとき、僕の今ここにある無力さを痛感しては、ただきっかけを与えられることに全力を注げる、

そんな自分にしか僕はなれません。


そんな時、
僕は近くの神社に行って、
その人の幸せを祈ることをしています。
人間、祈ることしか最後にはできない。
僕はそれを知っているからです。


それは、時にそのやさしさが
人を苦しめることにもなることを僕は知っています。

そして、
僕自身もそれで苦しむことも
やっぱりあります。

でも、
僕はどうかみんなが幸せでいてほしい、
どうか心から笑える人生を送ってほしい、
そう思えるのは、


同じようにたくさんの人にその気持ちを教えてもらった、
その人としての温かい気持ちに僕が支えられているから

なんですよね。



僕が本を通して、
映画や出会い、
様々なこの生きている世界を通して、
生きている力をもらっているように、
幸せといえるように
頑張ってゆけるように思えるのは、
それは
僕が周りからたくさんのものをもらっているから。

それは、
僕だけが幸せであることには
僕の本当の幸せがそこにはなく、
せめてかかわってくれているみんなが幸せであってくれることも含めた中で
初めて、
僕が幸せといえる。

そういうことをしってるからなんだと思います。

それは、
どれほど奇麗事とわかっていたとしても。
できる限り、
僕ができることを大切にしたいのです。


そういったなかで、
僕を必要としてくれる人がいる。
僕を必要としてくれた人がいる。

そういうときほど、だからこそ、
複雑になるときはありません。










ただ、そういう中で本当に心から良かったと思える出会いもあるのです。
この方は、とある主婦の方だったのですが、
僕自身が路上にいたときに出会ってくれた人でした。
先日、この方は、アトリエができたことを知り、そして、遊びに来てくれたのですが、
その人の状況が1年近く前の悩みと全く変わってなかったのです。
その内容は、家庭での立場の問題でした。

だんなさんがいて、子供が2人いらっしゃるということなのですが、
この方は、家庭内でとてもだんな様に虐待に近い、そんな状況を繰り返されていました。
その上、だんなさんには愛人もいるようで、それを気付いてながらも、見ないようにしていた。
何かを言おうとするものなら何を言っても見下され、「お前はダメな女だ」といわれ続けて、すっかり自信もなくなってしまったというのです。

確かに、問題はそのだんなさんにあると思うのですが、もっと大きな問題がそこにあることに、その方は気づいてませんでした。

それは、「そうわかっていても何もかえようとしない」その人自身の考え方でした。
いや、その方は、そうではないというのです。
色々といっても、だんなは弁護士だから、すぐに言いくるめられてしまうし、私も私なりに変えようと、なんとかうまくやろうとそう思ってやってきたんです。と、おっしゃいました。

でも、実はそういうことではないのです。
その人が、今の環境ではもうだめだとわかっていながらも、そこから先に進めない、その人の考え方がまずかったのです。

これから先、一人で生きてゆけない。
自分に自信ももてない。
そして、新しい環境に飛び込むことが怖い。

話をしてゆくうちに、彼女はこのようなことを口にもらすようになりました。

僕は、それを聞いて、こんなことを伝えました。

「たとえどんな言葉を何回、書いたとしても、何回伝えたとしても。
あなたが動こうとしなければ、人生は何も変わらないですよ。
僕はあなたを変えられませんし、変えることもできません。
僕に何度会いに来ても、変わりません。
それは、一年前に話をされたことと、今、全く同じことで悩んでいることが何よりもの一番の証拠です。
もう変わるまでこないでください。
そんなのはお金も時間も無駄に過ぎませんし、そんなお金は僕はいりません。」

色紙にはこれと同じようなことを書いて、その方に渡しました。
今思うとちょっと厳しかったかもしれません。でも、
このくらいの気持ちを伝えなければ、本当にその人が必要なたどり着くための答えに気付けないと思ったのです。

優しいだけでは、本当に人を癒せない。厳しくとも、そこに真実があること。それはその人にとって、本当に必要なことであるのならば、自分を敵にしてまでも伝えることも時には必要になってしまうこともやはりあるものだと、僕はこの頃良く感じます。

そして、
しばらくして、2ヶ月程たったある日です。
彼女がアトリエに現れたんです。

僕自身、あの方、どうされたかなぁと思っていた矢先だったので、驚いたのですが、
入ってきた瞬間にわかりました。

全く、その人は前の彼女さんとは別人でした。
顔色が全然違うし、雰囲気も若々しい。

そして、その人は目の前に座ってくれて、こんなことを伝えてくれました。

「あの後、実は何度もハタサンのところに行こうと思ったのです。
でも、そのたびに、私の中で決めていたことがあったんです。
それは、ハタサンに言われたことでもあったのですが、
「自分が前進できた報告ができるまで、ハタサンのところにはいかない。」
それを胸にしてきました。
いいたくて、聞いてほしくて、そういうことが一杯になってしまったときは、ノートにハタサンに聞いてほしいことをずっと書いていました。
実はそれがいつの間にか、行動する支えになっていたのです。
そして、その中で、
「私が”できる範囲”の中で行動しよう」とそう思ったのです。
周りの親族の方にも相談にのってもらって、そして、カウンセラーにも通い始めました。
まず自分が自立するためには、就職をしなくちゃいけない。
そして、今できること。それは、就活をしようと思ったのです。
うまくいかないことが多かったのですが、ようやく自分のことを理解してくれる就職先を見つけて、
次に自分の意見を夫に伝えたうえで、親権の問題もあるのですが、離婚になりそうなんです。
離婚するにも、生活はどうするんだと聞かれたので、実はもう就職先を決めているんだと、そういってきました。」

そう僕に伝えてくれたその方は、とても生き生きしていた。
前にはなかった自信が胸にあふれていました。

「やっぱり、夫はかわらないのです。どんな言葉を言っても、聞いてもらえない。このような状況になっても、かわらない。
そういうことを知ってゆくうちに、私の中で相手を冷静にみれるようになりました。
それは、自分に余裕がないとできないことですが、私にできることでいい。
少しずつでも私にできる範囲で動けば、少しずつ変わってゆけるんだと、そう思うことができたんです。
事実、就職することなんてもう10年ぶり以上だったのですが、私は変わること、できました。」

僕はその言葉を聴いて、涙がこぼれそうになりました。


うれしかった。
その方がこんなにも生き生きして、そして、今、まさに自分の人生を自分の足でまた歩いていこうとしている、そんな姿が見れたことが。
そして、それは僕に、人間の可能性のすごさを教えてくれたことでもありました。

今までのその方だったら、信じられない。
しかもこのたった2ヶ月の間で、ここまで違うということは、
この彼女自身、相当努力されたことでしょう。そして、とても頑張って歩いてきたことだと思います。

でも、彼女はやり遂げた。
自分を信じて、自分が今のままじゃダメだということをちゃんと踏まえられたうえで、
ここから自分の足で踏み出すこと、歩き出すことを決められたのです。

僕は思わず拍手を贈ってしまいました。
本当にうれしかった。
その人の状況を知っている分、僕は他人事のようには思えなかった。
そして、今までその人を見て知っている分、驚きを隠せませんでした。
こんなにも人間は変わることができるんだと。それを教えてくれました。

そして、こんなにも喜んでいた僕を目のあたりにして、驚きつつも
この方はこんなことを伝えてくれました。

「もしも、あの時、路上でハタさんに出会わなかったら。私は変われてなかったと、そう心から思います。
あの時、寂しくて、渋谷をふらふらしていて。でも、ふと、あそこで真剣に人の悩みを聞いている姿をみて。
私はそれを見て、どうしても聞いてほしくなったのですが、あそこに座るまで、実は1時間以上、行ったりきたりしていたんです。笑
恥ずかしくて。でも、どうしても聞いてほしかった。
そうやって思うと、今ここにいれることも、アトリエに来てハタさんに出会えて、こうやって話をきいてもらって。
最後に変わることができた。
だから、どうしてもお礼がいいたかった。
これから、新しい人生が始まると思うと、とてもうれしくて、でも、正直不安もたくさんあるんです。
でも、そのたびに悩むことや、ぶつかることもあるかもしれませんが、そのときはまた話を聞いてもらっていいですか。
そのときは、もっと成長してきますから。」

もちろん、僕でよかったらいつでも聞きますよ。
と伝えたのですが、
この方は勘違いされています。

それは、そのお礼は僕に言うことではないのです。
もちろん、そう伝えてくれることはとてもとてもうれしいのですが、正直僕は何もしていません。
僕はあるがままのことをただ伝えただけ。
でも、
忘れてほしくないのは、それがどんなきっかけであったにせよ、
それを「実行し、行動し、自分を変えた」のは、その彼女さん自身、それ以外のなにものでもないのです。
その感謝の気持ちは、
行動できた”自分”にまさに、伝えてあげなければいけないことです。

これからの自分に対してまた色紙を書いてくださいと伝えてくれた。
喜んで書かさせてもらったのですが
この方がそのときにぼそりと言葉をいったのです。

「ほんの少しだけれど、自分のことが好きになれました。」


本当に素敵になったな、
本当に素敵なことだな。

この人はただ自分をほめる術を知らなかっただけ。
そして、自分がこれからであることを忘れてしまっていただけ。

何一つ昔と変わっているものなんてなかったのです。
ただ、おかれている環境によってはこんなにも違ってしまうこと。
10年間も我慢してきた環境にそれほど、忘れてしまう思いがあったのでしょう。

むしろ、
そのことよりも、僕は10年間という歳月を経ながらも、
そこから抜け出そうと行動できたその人を賞賛すべきだと思いました。

人間が環境を変えようと思うことは並大抵のことではできません。
それは、長ければ長いほど、固執していればいるほど、難しくなるものです。
でも、
それでも人間は変わることができる。




人間は変化を望む分、でも実際は変化を怖がる生き物でもあります。

行動しても変わらないんじゃないか。
むしろ、今の状況よりも悪くなるんじゃないか。
そう思うと、今の環境を我慢することのほうがよっぽどいいんじゃないか。
そんな風にも思ってしまうもの。

でも、それは全くの間違いです。

歩けば景色も変わるし、
出会う人も変わってくる。

それは背伸びをして変わろうとする事ではなく、
自分ができる中で、変わろうとすることだからこそ、
ちゃんと新しい世界は築かれていけるのだと
僕は思います。


この方は、今まさに僕がいったことをすべて自分から口に出されてしゃべるようになりました。
僕から見ればそれがまたびっくり!笑
どうしちゃったの?
というぐらいの変わり様です。
でも、そのぐらいその方はたくさんのことを受け止めて成長されたんでしょう。
これからがとても楽しみになりました。

そして、最後にこの方はこう伝えてくれました。

「ハタサン。ハタサン、今とても忙しいと思うのです。きっと、これからはもっともっと忙しくなると思うのです。
でも、ハタサンにお願いがあります。たとえ、何ヶ月かにたった一日だけでもいいのです。路上にでることをやめないでください。
私みたいに、悩んでいる人がたくさんいて、でも、そういう人たちは、なかなか悩みを話すきっかけがなかったりすると思うのです。
私がそうだったように、話を聞いてもらえるだけでも、それがこうやってきっかけになることもあるのです。
その人たちのためにも、どうかこれからも出てもらえませんか。」

これでは、どっちが癒し人なのかわからない。笑
現実には路上自体、続けることはこれから難しくなることは確かなので、
複雑な気持ちもたくさんあったのですが、とてもその心がうれしかった。そして、
こうやって伝えてくれた事実は、僕にとって大きな今を頑張る力をもらえた出来事に変わりました。

僕はこの想いを決して忘れてはいけない。

僕はその方が伝えてくれた真実は、これからも僕にとっても原点となる、そんな気持ちにかわっていることを感じました。


「もしも、また誰かと一緒になるのなら、今度はちゃんとそのままの私のことを好きになってくれる人と一緒になりたいと思います。無理をするのではなく、そのままの自分の姿を大切にできる人と。ハタサン、そういう人、現れると思いますか?」

そう聞かれて、僕は笑いながら、

「絶対に現れます。」

はい、断言しておきました。

あなたが人生を変えられたように。

またこれからがあなたの人生の本当の始まりなんですから。







また、
今月、もう一つ素敵な出会いをくれた方がいました。


この方は、
今まで、ずっと重い病気を患っていました。

まだ若い方なのですが、
成人病にかかってしまったのです。

原因は、
おそらく会社で働いているストレスによるものだったそうです。

そのことで、
入退院を繰り返し、
1年ほどずっと、
病院での暮らしだったそうです。

そのとき、
病院で、パソコンをつないで、
僕のhpをずっとみてくれていました。

そして、
それを乗り越えて、体も良くなって、
アトリエにわざわざ遠くから
来てくれたのです。

僕に会うためだけに。
お礼を伝えるためだけに。


「ずっと、病院に入院しているとき、ハタサンのhpを見させてもらっていました。
ハタサンのhpでたくさんの言葉に触れて、なんど元気をもらったか。
本当に救われました。ありがとうございました。」

そういって、
かばんの中から僕の本をとりだしてくれました。

「僕、ずっと持ち歩いているんです。」

うれしそうに、そう僕に語ってくれました。

僕は、
正直、その人に救われました。

僕はこんなことを言っていますが、
実は、
誰かを救えなかったり、
こんな自分を痛感しては
もどかしさを払拭できない、
そんな自分もやっぱりいます。

誰かを傷つけてしまうことだって、
ありますし、
うまく言葉にして
だすこともできないことも
やっぱりあるのです。

僕は完璧にはなれません。

でも、
そんな今まで続けてきたhpを通しても、
また、
僕の伝えられることが
できることが、
少しでも、誰の役に立ててる、
生きる気持ちを大切にできている。

それを伝えに来てくれたことに、
僕はこの上のない
感謝の気持ちでいっぱいになりました。


「今は会社も辞めて、自分が人生を大切にすることだけを
大切にしています。
今度、僕、お店を持つんです。
こんなに人生が楽しいと感じるのは初めてで。笑
僕はこれから自分を大切にして生きてゆきたいと思います。」


そういってくれたこと、
僕はほんとにうれしく思いました。

この方のご両親や身内の方は、
会社をやめることに反対をしたらしいのです。

でも、
彼は自分の気持ちに正直になって生きようと
そう決断をした。

それは、
この病気を通して、人生が一度限りであることを実感したからという
その気持ちからだったそうです。

まさにその言葉は
自分が生きる狭間で乗り越えた人だからこその言葉でしょう。


その方は、
笑ってこたえていましたけれど、
僕はその決断をしたその人に、
そして、本当によくのりこえたという
その人に、
心からのエールと、
これからの幸せを願わずにはいられませんでした。













人間は不思議な生き物です。
こうやって自分のために、誰かのために強くなることもできれば、
その逆に、そうでなくなってしまうこともある。
それは、生きるということが決して一筋縄でなりたっているものではないことを教えてくれますが、
僕はこうやって生きることを大切にできたところにまた
新しい道がちゃんと開けることが
人生であり、
生きることであると思うのです。




僕は。

僕であることを
代えることはできないように、
僕は人間であること以上のことはできない。

そういうことを踏まえたうえで。

僕は、
僕のできる中で、
みんなの力に変わってくれたら、
そう思うのです。


それがほんのたとえちっぽけでもいい。
それが全体の1%ほどでもいい。


ただ、
その人にとって、何かしらの
「きっかけ」に変わってくれたら、
プラスに変わってくれるそのお手伝いができるのであれば。

僕はそれに見合う自分になる努力を決してやめたりはしません。




たとえそれが、
結局は最後は無力なものであったとしても、
すべてを変える力にはならなかったとしても、
その人にとって
僕のできる中で、範囲の中で、

それを大切にできる自分に成長してゆけるように、
日々歩き続けています。


僕がそうできることの中で、
それを語り、形にしているからには、
それに恥じない自分でありたいのです。
それをちゃんと実行できている、自分でありたいのです。





僕は自分の祖父を尊敬しているところが多々あって、会うたびに僕に言ってくれる言葉があるのですが、
その中の一つにこんな言葉があります。

「〜ぶるな。〜らしくあれ。」

つまり、もしもそれを語るのなら、
それらしく振舞っているだけではだめだ。
それに見合う自分になれるように
日々精進し、それを語れる自分として、実行できる人になりなさい。
口だけの人間にはならないように。

そういう意味なのですが、
僕はこの言葉を聞いたときに、
僕の人生に大切なのはこれだと、
そう感じました。

人間、
何かの見よう見まねはできるものです。

でも、
何かを本当にやろうとすることは、
見よう見まねではなく、
自分が自分の中で確立してゆくもの。

それは、
逆を言えば、
誰かのまねをしても、
所詮それは真似事にしか過ぎないものなのです。


結局、
その人がそれをどうしたいのか
どう生きてゆくのか、

それは形で取り繕われるものではなく、
心から発してゆくもの。

それは、
理屈や、欲を超えた、
”何か”がなければ、
道として成り立つことはできないのではないか。

僕は、
そう思ってしまいます。







今更突然ですが、僕は正直、
癒し、という言葉が実はあまり好きではないんです。笑

始めはあまりこの癒しという言葉を深く考えることはありませんでした。
でも、僕自身がこの活動を日々続けて行けば行くほど、ぶつかった想いがありました。

でも、先日とある本に出会ったときに書いてあった言葉に考えさせられてしまったのが
さらにそれを深めるきっかけになりました。


人を本当に癒すことも、心を汲み取ることもそんな簡単な事ではない。

むしろ、そんな簡単に誰かを癒すなんていうことはできないことを、人の心の闇を知れば知るほど、
思い知らされることはないのです。


でも、それでも僕が癒し人と名乗ってきているのはわけがあります。


「だからこそ」

だからこそ、
僕はあえて、

”癒し人”というフレーズを僕は使い続けています。

なぜなら、
そういうことを自分の中で僕を位置づけてしまうことで、
もう僕はそこから逃げられないからです。

先ほども述べたように、
それに見合う自分にならなければ、
「癒し人」と名乗る資格はないのです。

それは
僕自身への戒めでもあります。

軽々しく名乗れるものでも、
それを簡単にはできるものではないからこそ、
名乗っていいものでもないとわかっているからこそ。

僕は、
この癒し人、
という言葉を自分に課しつづけてゆきたいのです。

それに「見合う」、
ほんものの自分に近づけるように。


僕は、
こうやって、
今、色々な人との想いと一緒に
生きています。













僕はこの本を作ることができてよかったと、
本当に思います。

それは、
決して、形では取り繕うことのできない、
心の架け橋になってくれていることを
たくさんの人がこの本を通して
教えてくれたからでした。

そして、
僕にたくさんの思いを伝えてくれた。

これは、
僕はその人との縁といわずに
何といえるのでしょう。

僕は、
そういった意味でも、
皆さんとであうことのできた
このきっかけとなってくれた本に、
誰よりも何よりも
感謝の気持ちでいっぱいになりました。


日々、
楽しいことばかりじゃなく、
悶絶してしまいそうなほど、
苦しいことや、
悲しいこと、

そんな想いと葛藤しながら、
僕も歩いています。

でも、
僕は、そんな皆さんと歩けていること、
そして、
そんな僕であっても、
少しでも、みんなの
心に何かしらの「思い」を大切にできること、
必要としてくれること。

僕は
大切にしたいと思います。


そして、
僕はそんなことを大切にしようと心から思える
不器用な自分にも、
そうやって、
大切に思ってくれている皆さんにも

本当に本当に
こころから
感謝を述べずにはいられません。


皆さん、
本当にいつもありがとう。

そして、
ごめんなさい。

至らない自分であったりも、
何もできない自分も
やっぱりいるのですが、
それでも、
何かしらプラスになってくれていることに
なってくれたら。

僕は本当にうれしく思います。

皆さん、
ありがとう。

またこれからも僕が
もっと成長してゆけるように、
みんなの笑顔がより多く見れる自分に成って成長してゆけますように、
頑張ってゆきますので、
どうぞまたこれからも
よろしくお願いします。


皆さん、

本当に心を込めて。

そして、
特に、
今月たくさんの心をくれた、出会ってくれた皆さんに、

本当にありがとう。

みんなが幸せになってくれますように。

心から願い、応援しています。









....最後に、
今、たくさんのことに悩んでいる人に。
受け止めて頑張っている人に。

人間は一人だけれど、
一人じゃない。

孤独だけれど、
孤独ではない。

つらいことは
あなただけではなく、
あなた以上に
それを受け止めても、
そして、こんなにも
生きることを頑張ろうとしている人がいる。


それをわかってもらえたら、
うれしいです。


僕は、こうやって出会えた方々、
こうやって、
今を乗り越えようとして頑張ってこられた方々を
今を一生懸命生きている全ての方々を
一人の人間として

出会えたことを心から心から。

誇りに思います。





































この夏が終わるころ。

またセミ達はこの世を去ってゆく。

たった10日ほどしかこの世界に出られないセミは

どれほどの想いでこの世界を生きたのか。



それを知る術は人間には、ない。





セミたちは

どんなに声をあげようとも、
どんなに一生懸命この空を駆けようとも、

数日しか生きられないことを知っていて
その中で恋をし、
身を焦がし、

そして、
静かに去ってゆくことが宿命であるのだと、

そう、悟っているのであろうか。



いつの間にか聞こえなくなってしまった
セミの声に気付くことはあったとしても、

そこにあるそんなセミの想いまでは人は
なかなか目を向けたりはしない。





宇宙の長さから比べたら
人の人生など
セミの人生以上に短いものであったとしても、

このセミ以上に一生懸命生きられている人間が一体どれほどいるのだろう。


そう思うと、
今日も聞こえるセミの声は
否が応でも
僕の心を打つ。





真実はいつも遠くにあるものではない。

いつもこんなにも近くに存在するものなのだ。




いつでも
あなたの人生は「終わり」から始まるのではなく、

あなたが歩きだした一歩が、

今ここからどんなときも
あなたの人生は始まりである以外にないように。


生きることにあるのは

終わりに向かう絶望ではなく、

新たなる明日に向かう希望であるのだと、

僕は信じたい。



この声はいま、
あなたの胸に届いていますか。

あなたの心に残っていますか。




今年もまた夏が始まり、

また夏が終わってゆく。


尊き命のかけらを次に残し、
また
新しき時代への始まりを告げる声を

セミたちは身を捧げて
僕達に伝えてくれる。
(2004.07.31)
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